肥え太った心の末7

 どうしようもなく重たい言葉に、それ以上詰めることがどうして出来ただろうか。
 心底安堵したとでも言うように脱力しながら、吐き出された言葉は途方もなく息苦しそうだった。怜はこちらが戸惑っていることに気がついたらしく、何かを言うべきだと口を開きかけたが、何も言葉を成すこともなく閉ざされる。ただ息だけが吐き出されて空に解けて消えていった。
 ぷらぷら、と足だけが遊んでいる。口数は少ないが、その分行動に性格が出やすい子だったか、と苦し紛れにそらした思考が記憶をほじくり返している。
 そうして二人そろって言葉を選びあぐねている内に、ぐう、と中々に間抜けな音が聞こえた。
 仁武は吹き出したし怜はそっと目をそらした。
「自分の腹の虫が空気を読まないばかりに……!」
「フッ、ははは! 確かにろくに食べてなかったもんな。何か食べるか」
 きゅっと顔のパーツを中央に寄せて怜が顔を覆った。くしゃっ、という擬音が聞こえそうなくらいの勢いでもう仁武の腹筋は駄目だった。
 数え切れないくらいの『そういえば』を重ねていく。不確かな過去を確かに在ったのだと駄々をこねながら今を歩いている。そこに一人加わっただけで、こんなにも、と仁武は緩んだ口角に感情を隠して立ち上がった。
「とは言っても、男の一人暮らしの冷蔵庫の中身なんてたかが知れているからな……病み上がりの人間に向いた食事が出せたかどうか」
「牛丼が良いです」
「人の話聞いてたのか?」
 普通にガッツリ系のメニューをオーダーするな。というか厚かましいなコイツ。先ほどのしおらしい態度はどこへ消えたのか。
「冗談です」
 へらりと笑みを浮かべて、怜は遊ばせていた足を寝台の上へと移動させる。きゅ、と体育座りをして小さくなっている姿は実年齢よりも幼く見えた。
 そういえばいくつだったか、とふと思ったが今突っ込む必要も無いだろう。大学生だといっていたから、二十歳前後であることはまず間違いなさそうだ。
 まったく、とぼやきながら冷蔵庫の戸を開けて、固まること十数秒。仁武、という怪訝そうな声に冷蔵庫の戸を閉めた。
「生協が明日で、だな。すまん、十六夜に買ってきてもらったゼリー飲料ぐらいしかない」
 なんか生々しいなあ。怜はちょっとそんなことを思ったが、何も言うまいと口を閉じた。週一で頼んだものがやってくる、どちらかと言えば主婦とかご老輩向けのサービスだったと思うんだけどなアレ。でも便利と言えば便利か。
 存外まめな性格というか、自己管理に関してはまめな仁武である。存外しっかり使いこなしているのだろう。
「ならそれがいいです」
 ください、と手を伸ばす様はどうあがいても子供のそれだ。少なくとも仁武にはそう見えた。
 遠慮しているように見えてどうにも図々しく思えるのはそのせいか。それはそれで構わないだろう、と苦笑をこぼした。
 ゼリー飲料を投げてよこして、怜があっさりキャッチしたのを見た。
「何で笑ってるんですか」
「すまん、特に意味は無い」
 そうですか、と首をかしげながらキャップを開けている。
 普通だ、普通の子だ――そう安心する仁武と同じく、怜もほぼ同じ感想を抱いていた。
 ゆがんでしまったもの、ゆがませられたもの。いつかの世界はどうしようもなくいびつだったと今ならば分かる。自分を含め、大なり小なり皆が傷ついて、やり場のない怒りを、無念を、後悔を、形容しがたい感情を抱えて生きていた。
 別に今世が素晴らしいかと言えばそういうわけではない。
 ただ、なんとなく、この生を受けて、この年になるまで彼らと会えなくて正解だったのかもしれないな、とだけ思った。
 ゼリー飲料をすする。フルーツの写真が印刷されたパッケージを握れば、良い具合にクラッシュされたゼリーが口内に排出された。あまいなあ、とぼんやりと思う。
 お前も世界に裏切られてきた、と言われた。何度も、何度も。
 そうだね、と頷いた。
 それは違う、と吐き出した。
 そのどちらもが正解で、どちらもが誤りだったと思えている。
 無限にも思える繰り返しのその末に、結局この身が救われることはなかったけれど。
 けど、それでも――
「怜?」
 顔を上げる。ぼうっとゼリー飲料をすすっている怜を心配したのか、食べたら寝ろと、聞き飽きた言葉を聞いた。
「なんでもない」
 なんでもないですよ、と呟いた。
 ――このようなみにくいこころなど……知られずにいたいと願っていた。
 美しいものは美しいもののままに。この執着も恐怖も後悔も、きっと自分一人が背負えば良いものだとずっとずっと思っていた。
 一つ一つ青い星をなぞって数えたことを、昨日のことのように思い出せる。
 ……馬鹿馬鹿しい。十分だと言い聞かせて、全然そんなことなんてないくせに!
 ほら、実際、それだけで十分だと思えなかったではないか。
 ああ、いやはやまったく。
「欲張りになったと思っただけです」
 人の心というものは、人間にさえ度し難い。