肥え太った心の末6

 ふと、目が覚めた。柔らかな雨の音が鼓膜に届いている。ふかふかとした布団の感触を確かめるように軽く手を動かして、それから浮かしかけた顔を再び枕に埋めた。
 ふわふわとした、ぬるま湯のような眠気が心地良い。覚醒しきれない意識が、無意識の海に半分浸かっている。
 もう一度目蓋を閉じればすぐに眠れることだろう。そこまで思って、かすかに重たい目蓋をそうっと閉じる。
 閉じてから、何か忘れているな、という事実に気がついた。何で今気がついたのか。不愉快さに少しだけうなって、それから何だったか記憶をたぐる。
「――テスト!!」
 そう、テストである。冷静に考えれば期末考査が迫っていた。
 これでは必修単位を落としてめでたく留年になってしまう。それだけは避けなければ……あっそういえば家どうなったっけ……
 怜はひたすらに混乱していた。混乱していたのと体調不良だったせいで、どうにも眠る前の記憶がおぼつかない。
 だからだろう。
「……真夜中だぞ、今」
「すいませんでした」
 すこぶる不機嫌そうな男性の声に脊髄反射で謝ってしまう。謝ってしまう、というかこれは怜が十割悪い。真夜中に大声は普通に考えて迷惑極まりない。
 ただ、謝ってから、はて、と首をかしげてしまった。
 この声は知っている、と脳の冷静な部分が告げている。よく知った声だ。呆れるほど聞いた声だ。この声を忘れることなど有り得ない、と叫んでいる自分がいる。
「あの、ここは?」
 恐る恐る手を伸ばす。床で寝ているということは、怜に寝台を譲ってくれたのだろう。有り難すぎて涙が出てくるが、しかしそうまでしてくれる誰かを『今の』怜は知らなかった。
 部屋の中はとても暗い。外の光でさえ、分厚い雲に遮られて星明かりも月明かりも届かない。代わりに、人工の光が窓から僅かに差し込んでいた。
「俺の家だ。覚えてないのか?」
「寝る前の記憶が曖昧で」
「ああ、高熱だったからな……」
 薬が効いたようでよかった、という独り言を拾う。物音と共に人影が立ち上がって、それから、ぱちん、という音を聞いた。
 天井の輪が白く輪郭を塗りつぶす。ほんの僅かな屋外の光をかき消すような人工照明が、部屋の中を照らしている。
 これでは見えないととぼけることも出来ないだろう。
「――……」
 知っている。知っている。これがよく似た他人であることすら有り得ないと胸の内側で叫んでいる。
 最期まで信頼してくれてありがとう、と大泣きしながら胸中の誰かが落としていた。
 とても懐かしくて、そして、どうしようもないほどに息苦しい。話したいことなど腐るほど、それこそ文字通り山ほどあったものだから、言葉が我先にと喉元に殺到して軽く渋滞している。
「仁武」
 やっとの思いで呼んだ名前はよく識ったものだ。名前を呼ばれた彼はどこかくすぐったそうに眉尻を下げる。
「鐵、仁武、ですか?」
「ああ。『久しぶり』だな、怜」
 なぜだか眼前の元上官はおかしそうに笑ってそう言った。お久しぶりです、とオウム返しのように呟いてから、脳裏に駆け巡るものを知覚する。
 記憶の混濁というものは、いわゆる脳のショック状態により引き起こされるものらしい。酒で記憶が飛んでしまう場合などがそれに当たる。
 怜の場合は別にそんな事態が起きていたわけではなく、単に寝起きだったからぼんやりしていただけだった。
 ついでに、記憶というものはきっかけがあれば堰を切ったようにあふれ出すものでもある。
「……すいません、今思い出しました。大変ご迷惑をおかけしました」
 穴があったら入りたい、と蚊の鳴くような声でこぼしてしまえば、今度こそ何かにツボってしまったらしい仁武が声を殺して大笑いしていた。
「それにしたって、第一声が『テスト』はないな」
「いやあの、すいません、本当に忘れてください……」

 結月怜は普通の大学生である。大学生と言っても別に苦学生とかそういうわけではなく、ごく当たり前に親から学費を出してもらい、下宿代を出してもらい、自分の小遣いぐらいはバイト代で稼ぐような、どこにでもいるような学生であった。
 いやまあ、雨の中呆然と突っ立っているあたり本当にただの大学生かと問われればやや微妙ではあるのだろうが、しかし世間一般的に見れば普通だろう。
 ぴぴぴぴ、とくぐもった電子音に脇を開く。体温計が指した体温は三十六度台で平熱だ。解熱剤はしっかり効いてくれたらしい。
「もうこんな時間だ、帰る、とは言わないだろう?」
 目が笑ってないなあ。怜は無言で頷きながら、選択肢が無いも同然では、と内心で首をかしげていた。
 真意は知らないが、それでも屋根のある部屋で寝られるのは助かる話でもある。ここは素直に仁武の厚意を受け取っておこう。そう判断して、怜は体温計を元あった場所に差し込んだ。ペン立ての中にはボールペンやらノリやらはさみやらが立っている。
「服も乾いてないですし、そうします」
「はは、そうだったな。流石にこの暑さだ、明日には乾いて……」
 途切れた言葉に、ああ、と頷いた。
 流石にその理由まで分からないほど怜は間抜けでも愚鈍でもない。続き、今話しても、と許可を求めるように言葉を選んだ。
 仁武は一瞬赤茶の目を迷ったようにさまよわせて、それから、頼む、と短く応じた。何を悩んでいたのだろうと思ってから、気を遣ったのだろう、と遅れて気がつく。この人はそういう人だった。
 媒人たる結月怜は、よく知っている。
「まず、自分は今学生で、下宿をしています」
「そうか。大学か?」
 はい、と頷く。そういえば仁武は大学は出たのだろうか。なんとなく玖苑や十六夜なんかはしれっと良いところを出てそうだなあ、と偏見にまみれた思考を止めて、続きの文を連ねる。
 結月怜は大学生で、学費と下宿代は親が出していて、小遣いは自分で稼いでいる、ごく普通の大学生であること。
 そして――
「つい昨日台風が通過したじゃないですか」
「ああ、あったな。季節外れな上無駄に雨風が強くて驚いた」
「はい。その台風で下宿先の屋根が吹き飛びまして」
「……は?」
「元々雨漏りしていたのでまずいかなあとか思ってたんですが、まさか屋根が吹き飛ぶとは思わず。流石に哀れに思ったらしい大家さんが自分の教科書とか預かってくれてるんです」
「ま、待て。ちょっと待て。屋根が吹き飛ぶ? どれだけ老朽化していればそうなるんだ。手抜き工事でもしていたのか? というか荷物を大家に預けて問題は……いや、それ以前にお前の親は」
 出す情報の順番を明らかに間違えた気がするが、しかし雨の中立っていた理由はシンプルに『借り家が壊れたから』であるが故にこの話は避けては通れない。
 ジレンマだな、と怜は思考を宇宙の彼方へすっ飛ばしつつ、大丈夫ですよと実に薄っぺらい肯定の言葉を吐いた。
「大家さんはいい人なので」
「だが」
「いい人、です。ネグレクト気味の家庭を哀れに思って、実際に手を差し伸べられるくらいには自己中心的で偽善的な『いい人』だ」
 そんな話は今はどうでも良いでしょうと言わんばかりに吐き捨てて、怜は相変わらず背の高い上官だった人を見上げる。
 息をのむように喉仏が上下した。少し開いた目が動揺を伝えている。相変わらずお節介でお人好しだと思って、だから自分はこんなところで座っているのだろうと自覚した。
「他のみんなはいるんですか」
「ああ、いる。少なくとも純の志献官は……他の、混の志献官はまだ分からないが」
「――そう、ですか」
 熱でもうろうとした意識の中で、見知った声を聞いた。何よりも大切な言葉を拾った気がした。けれどもそれだけでは不安だった。
 ああ、そうか。この何とも平和で腑抜けた世界に彼の人たちがいるというのであれば。
「よかった……」
 ごぽりと、水の中でやっと息を吐き出すような重さを持って音がこぼれて、そして狭い部屋の床へびちゃりと落ちた。