肥え太った心の末2

 実際問題、霧雨というのは雨粒が細かい分、早く衣服を濡らしていく。それなりに外にいたらしい怜はすっかりずぶ濡れで、ついでにかなり身体も冷えていた。
 基礎体温が高いために上着を置いてきたことを心底後悔することになるとは、と仁武は内心で己の今朝の選択を悔いながら、しかしフード付きのパーカーで済ませなくてよかったと考えるべきかと思い直す。
 なお、雨の日にフード付きパーカーはいつぞやの玖苑にどやされて以降あまりやっていない。小雨の時は面倒だからとまだやっているのだが、言わなければばれやしないだろう。
 公園を過ぎて、道沿いに進む。傘を傾けられていることに気がついたらしい怜が不満そうに眉を寄せたのが見えたが、ついぞ何も言わなかった。
 ぽつぽつと傘をぬらす雨音と、湿った足音だけが耳に響く。何かを言おうとしては、言葉が喉で渋滞を起こして何も外に出てこない。
 長い時間が過ぎたのだな、と思った。
 それでも記憶が色あせていないのは喜ばしいことだろうか。それとも、ただ未練がましく過去の縁にすがっているだけなのだろうか。
 見慣れた道を歩く。そわそわと視線をさまよわせては、また思い出したようにくしゃみをしている怜に安堵を覚えた。
「着いたぞ。とりあえずタオルを持ってくるから、すまないがそこで待っててくれ」
 鍵を開けてとりあえず玄関に入ってもらう。立ちっぱなしと言うのも申し訳ないが、ずぶ濡れのまま家に上げても仕方がない。
 怜はこくりと頷いて、それからもう一度くしゃみをしていた。どう見ても風邪である。ひとまずは身体を温めるために風呂を焚いておく必要があるだろう。
 適当なタオルを掴んで、ついでに風呂のボタンを押してから戻る。
 こぢんまりとした住まいを当たり前のように歩いてから、そういえば勢いで連れてきたがこの後どうしようか、と今更な疑問が頭をよぎった。
「……っくしゅん!」
 本日何度目か分からないくしゃみを耳にして我に返る。何とも各所がおろそかになってはいけない。久しぶりの再会に――有り得ないと思っていたそれに、どうやら酷く浮かれているらしい。
 すまない、と声をかけてタオルをよこす。ありがとうございますと、平坦ではあるがやや震えた声に眉が寄った。タオルを渡す際に触れた手はひやりと冷たい。
「仁武?」
「いや、何でも無い。軽く拭いたらシャワーでも浴びて風呂に入れ」
「それは流石に」
「もうわかしてきたからな。大人しく世話されてくれ」
 ついでに言えば仁武としてもとっとと風呂に入っておきたい理由があった。じくじくと痛む傷はおそらくは低気圧とこの雨のせいだろう。骨をやったわけではないが、皮膚が引きつるような、泡立つような痛みは正直言って不愉快だ。大抵、患部周辺を温めるか安静にしていれば収まるので普段はそうしている。
 ふらふらと迷うような視線が泳いで、それならば、と渋々怜が頷く。
「それでいい。着替えは……嫌だろうが、俺のを使ってもらうしかないか」
「体格差が絶望的では?」
「取り急ぎ、だ。ひとまず今着ているものが乾かないとどうにも出来ないだろう」
 ついでに言えば、脱いだ衣服のタグを確認すれば仁武一人でも調達が出来る。風呂一つで遠慮されるくらいだから、当然そういった厚意も遠慮するのだろうが、まあ、事後であれば拒みようもないだろう。
 そんな意地っ張りがなんとなく実家の弟妹たちに重なって見えて、つい苦笑を漏らす。ぐしゃぐしゃとタオルで怜の頭を拭けば、うわ、と驚いた割に平坦な声が返った。

 やはり風邪を引いている。
 仁武はぽやぽやと風呂から出てきた怜を布団に放り込んだ後に大きくため息をついた。
 十分に身体が温まったせいか、あるいはやっと雨宿りが出来たせいなのか、怜は風呂からあがったはいいものの、酷く眠そうな顔をしていた。
 眠そう、を通り越して完全に体調不良の顔をしていたものだから、そのまま寝台へ放り込んだのは言うまでもない。
「……どうしたものか」
 テープルの上に鎮座する携帯を凝視しながら、さて、と首を捻る。事情を聞かずに布団に放り込んでしまったのは失敗だったかもしれない。とはいえ、あんな足下もおぼつかないほどの体調不良者に聞き取りが出来るほど仁武も効率主義者ではなかった。
 なるほどこういう気持ちになるのか、と仁武は深々とため息をつく。よもや死んだその先で玖苑と十六夜のように仁武に休め休めと連呼していた側の気持ちが深く理解できるようになるとは夢にも思うまい。
 玖苑と十六夜のそれは仁武の思うそれよりも余程深刻で重たいものであるのだが、まあそれを指摘する人間はいないし、指摘されたどころで実感を伴えないのも皮肉な話ではある。大体、死に至る病と風邪を一緒にするのも本当にアレではある。
 仁武はうんともすんとも言わない携帯電話を眺めて、それから息を吐く。
 媒人――『結月怜』の行方は皆が気にしていたことだった。
 仁武をはじめとした志献官十名は、その記憶にばらつきはありながらも「結倭の国を救うために戦った記憶」が確かにあった。故に、その救世を成し遂げるための最も重要なキーパーソンであった怜のことも、当然皆が記憶していた。
 問題だったのは、他の志献官は早々に行方がつかめたのにも関わらず、彼の人だけが行方知れずのままだった、ということだ。
「まあ、こうして十人全員がここにいるってのもそれこそ天文学的な確率の末起こったことでしょうよ。一人いないってのも、単にそういう話なだけなんじゃないですか」
 期待するだけ傷つくだけでは、と四季は口にした。
「でもさ、ここまでそろったんだから、きっと怜もいるに決まってるって。根拠はないけど、でもいると思う!」
 十人がそろうのならば当たり前に彼の人もいるのではないか、と栄都は希望的観測を口にする。
 そこに肯定も否定も寄せられなかった。結局のところ、誰もが期待していたし、誰もが信じ切れていなかったというだけの話なのだ。
「連絡はするとして、誰に……十六夜か」
 だから、この一報は誰もが喜んでくれると信じて疑わないし、事実そうであると思っている。
 仁武は携帯を開くと、電話帳を見ずとも覚えてしまった番号を打ち込んで発信ボタンを押した。四回目のコール音が途中で途切れて、もしもーし、と実にやる気の無い声が聞こえて肩の力が抜けた。
「十六夜さん、お疲れ様です」
「お疲れさん。珍しいね、仁武からかけてくるなんてさ。もしかして、宴会のお誘い?」
「宴会ですか、それも悪くはないですね」
「え、マジ?」
「マジも大マジですよ。ああ、それはさておき」
 くつくつと笑いながら言葉を重ねる。寝ているはずの怜は起こさないように、声だけは大きくならないよう留意しながら口を開いた。
「媒人が――怜が、見つかりました」
 端的に要件を伝えれば、先ほどの茶化すような声がピタリと止んで、代わりに息をのむような物音だけが聞こえてくる。
「あれ、仁武、電話ですか?」
「……えっマジで言ってる? 今なんか聞こえたんだけど、おじさんの空耳?」
「ステレオ放送やめてもらっていいか?」
 いつぞやの朔と三宙に挟まれた時にキレた四季が発した文句が口から滑り落ちた。仁武はもうすべてを諦めてスピーカーボタンを押してテーブルの上に転がし、整理するように息を吐いた。
「十六夜さん、ちょっと待っててもらっていいですか。怜、お前は寝てろとあれほど」
「いえ、解熱剤があるかなと。自分は今無一文も同然なので」
「……今、持ってくる。そのあたりの事情は後で聞かせてもらう。飲んだら寝ろ」
「そうします」
 怜の手元には体温計があった。三十八度台、立派な風邪である。仁武は常備薬を突っ込んでいる引き出しから解熱鎮痛剤を取り出し、一回分のシートを切り取った。
「電話口、十六夜って」
「寝ろ」
「でも」
「いいから寝てくれ。そのあたりの話は体調が回復してからだ。高熱を出している人間がふらふら歩き回るな」
「……電話口、十六夜っていってましたね」
「この強情屋め……」
 思わず頭を抱えると、携帯から苦笑交じりの声が流れ出した。十六夜が絶えきれずに笑った声だろう。
「なるほどねえ、怜がそこにいるのか。おじさんも今から行っていい? あ、ほら、療養の邪魔はしないからさ。見舞いってことで。他の志献官連中には伝えておくけど、押しかけないように念いれとくよ」
「十六夜さん、貴方まで」
「一人なら問題ないでしょ。それにほら、入り用なものとか無いの? 仁武ってば、めったに風邪なんて引かないじゃない」
 ふわ、とあくびをする声に振り返る。空のコップと、薬が取り出されてゴミとなったシートを持った怜が立っている。
「他の志献官?」
「そうそう、他の純の志献官。お前さんもよく知ってるあいつらだよ。ほら、気になることは聞いたろ? 仁武の胃をこれ以上痛めないでやってよ」
「はい、ありがとうございます」
 一瞬だけ何かもの言いたげな表情をこちらへと向けて、それから怜はふらふらと寝台の方へと戻っていった。
「仁武さあ、割と動揺してた?」
「……恥ずかしながら」
「まー、そらそうだよね。おじさんがその立場なら、流石に混乱の一つはしちゃいそうだ」
 混乱は確かにするだろうが、十六夜は仁武のようなわかりやすい動揺はしないのだろうな、と苦笑交じりに相づちを打った。
 おかしく思えたらしい十六夜がまた笑い出して、それで、と笑い混じりに話を続けようとスピーカーから震えた声が流れた。もう一度スピーカーボタンを押して携帯を耳に当てる。
「おじさん何持って行けばいい? ゼリーとか? 解熱剤も買ってく?」
「解熱剤はまだあるので、そうですね」
 怜は現在まだ着れそうな仁武の服を着ている。体格差がありすぎて、丈が長めのシャツ一枚で事足りているのが何とも笑いを誘ったが、流石に失礼が過ぎると気合いでこらえたのはつい先ほどの出来事だ。
 なお、下着は洗って無理矢理乾かした。流石に仁武のものを使わせるわけにはいかなかったし、かといって新品のそれがあるわけでもない。あったところでサイズが違いすぎる。これほど洗濯機の乾燥機能に感謝する日が来るとは夢にも思うまい。
「早急に必要なのは服ですかね」
「なんて?」