ぽつり、ぽつり、雨が降っている。
仁武がその人を見つけたのは偶然だった。
六月の中旬、柔らかな雨がアスファルトを黒く染めている。使い古された傘は撥水性を失い、どことなく重たかった。
じくじくと不調を訴える古傷に眉をひそめて息を吐く。現場仕事から退いたとはいえ、随分とたるんでしまったなと、完治したての脇腹をさすった。
ぽつ、ぽつ、ぽつ。
雨粒は決して大きくない。細かな雨は針のように細く、それでいて絹糸のように柔らかかった。傘では防ぎきれない、風に流れた雨粒が仁武の手をぬらしている。
雨が降っているからだろう、外を歩いている人間は少ない。閑静な住宅街を歩く人間は仁武ただ一人だ。
少し先に公園が見える。その更に奥の道を曲がれば、仁武が借りているアパートがあった。
いつもと変わらない雨の帰り道。曇天はどこか明るくて、雨は梅雨の時期の割に柔らかい。すっかり黒くなったアスファルトの上を大きな靴が通っていく。
そんな、実によくある帰り道で、仁武は公園に佇む人影に思わず歩を止めた。
「――は」
咄嗟に名前も出ないとは笑えない。逆に言えば、それだけの衝撃があった、ということだろう。
ぽつん、と公園のベンチに座って足をぷらぷらと遊ばせている人影は良く見知ったものだ。雨に濡れて髪は重たそうに肌や衣服に張り付いている。簡素な襟付きのシャツと、シンプルな黒ズボンを合わせた、ややフォーマルよりな服装だった。
いや、そんなことは今はどうでもいい。
仁武はあっけにとられて停止した思考を無理矢理元に戻して、もう一度人影へ目を向けた。斜め後ろから見る形になっているせいで、顔は良く確認できない。
今公園へ入って顔を確認するのは不審者だろうか。なにかこう、忘れ物とかなくし物をした体を装って話しかけてみるのならば自然だろうか。
どうしたものかな、としばしの間制止してしまう。仁武は嘘がつけないわけではないが、だからといって嘘が上手いわけでもない。探りを入れるのも、当然のごとくそこまで得意ではない。そのあたりはある意味玖苑の方が上手くやれるだろうとさえ思っている。
そうしてしばらくの間どうしようか固まっていたからか、仁武はぬるっと現れた人影に気がつくのが遅れてしまった。
「……仁武?あ、そうだ、ええと」
平坦な声、淡々とした言葉。
いつの間にか移動していた人影は仁武の目の前にいる。
「鐵仁武、純壱位?」
息が詰まった。こちらをのぞき込む目は相変わらず何を考えているか読めない色をしている。
この子が口にしたのは仁武たちしか知り得ない階級だ。純壱位などという階級は少なくともこの世界には存在し得ない階級だ。
古い、ふるい記憶の中の話。別の世界か、平行世界か、はたまた同一世界の過去か未来なのか――それは、仁武をはじめとした志献官全員が分からない話ではあるのだが。
あの世界を救うために駆け抜けた五十日間を、あるいは己の無力に苛まれた十年間を、仁武はよく覚えていた。
「怜……結月、怜か」
「はい。お久しぶりです」
「媒人、『触媒』の志献官の」
「はい。お久しぶりです、仁武」
「ふっ……ああ、久しぶりだな。ところで何でこんなところにいるんだ。ずぶ濡れじゃないか」
意地でも挨拶を引き出すぞ、という強い意志を感じる。仁武は思わず苦笑して、世間話をするように思ったことをぶつけてみることにした。
流石に失礼ではないだろう。こんな雨の中、傘も差さずにベンチでぼうっとしている理由は誰だって気になるに違いない。
そんな言い訳を内心で並び立てていれば、怜は、そうですね、と口を開いた。
「まず、自分は今学生で……っくしゅん!」
ずび、と鼻をすする音に吹き出してしまった。不満そうな怜の視線が刺さって、当たり前のように、あるいは、ふるい記憶の延長のように言葉を連ねる。
「ここで立ち話をするのもあれだ。風邪を引いても面倒だからな。俺の家がここから近いから、そこでいったん落ち着いて話すのはどうだ?」
きょとん、と怜が瞬きをする。ぽつぽつと降る雨が傾けた傘をすり抜けて仁武の背中をぬらしていた。
「……それなら、お言葉に甘えて、はっ……くしゅん!」
「既に風邪引いてないか、お前」
「引いてないです」
「くしゃみ連発された直後に言われてもな」
引いてないです、と頑なな平坦な声に吹き出した。
よく知っている。よく覚えている。ふるい記憶は水底にあれど、取り出すことは容易いものだ。郷愁と歓喜があふれて訳が分からなくなりそうで、ごまかすように笑う。
「ああ、これ以上冷える前にとっとと帰るか」
そんなありきたりな台詞でさえも、どうにも懐かしくて仕方がなかった。