褪せた記憶は星明かりに揺れる

七瀬・三宙の彩縁の後の話。
媒人の記憶が薄れて怖くなった七瀬と、そんな七瀬の手を引く三宙の話。

「消えてしまわないように、なくなってしまわないように」


 さくさくと草を踏み分ける音に耳を澄ます。風に揺れて草葉がこすれる音が心地いい。夜空には僅かな明かりが無数に瞬いている。ひときわ白い照明は今夜はサボっているらしかった。
 静かだな、と七瀬は一人防衛本部を抜けてふらりと歩いている。既に防衛本部の規則はかなり緩められており、こうして夜間外出をしたところで差し障りは無かった。
(ぼく、ぼく……もう、あまり思い出せない)
 くしゃり、と顔がゆがんだ。目に溜まるものは無く、代わりに小さな足が刻むリズムが速くなっていく。
 未だ幼い七瀬には世界が崩壊するまであと何日とか、だからどうだとか、正直言って正確に理解できていたわけではない。それは七瀬自身自覚していたし、それはそれで構わないと思っていた。
 七瀬の世界には栄都しかいなかったから、栄都さえいれば七瀬にとっては本当にどうでも良かったのだ。
 世界が終われば栄都も七瀬も消えてしまう。それは嫌だったし、何より栄都と共にいれないことが嫌だったから、志献官として戦場に立っていた。
 それだけ。
 凍硝七瀬という人間の戦う理由は、本当にそれだけだった。
 風が頬を撫でている。世界を真に救ったのは七瀬と三宙だ。戦いの中で最も結合率が高いと判断された二人は、紆余曲折ありながらも、無事世界を取り戻して見せた。
 犠牲無しに、とは言えなかったけれど。
(おもい、だせない……もう……)
 息が弾んでいる。早くなりすぎた足は既に走っていると言えただろう。
 七瀬の代わりに飛び込んだ人の顔を知っている。訓練でもしょっちゅう、というか必ず顔を合わせていたし、ふらりと現れては言葉を交わした記憶もある。
 触媒の志献官であるというその人のことを、七瀬は良く覚えていたが、しかし既に記憶の底へ沈んでしまっていた。
(ぼく、ぼくは、ずるい。救われたのに。助けてもらったのに……なにも、なにも、ぼくはあの人のこと、思い出せない)
 あの瞬間、暗くて冷たい反世界の中に飛び込んできたときの顔ですら、七瀬は良く思い出せなかった。
 桜色の試験管の数字を見せられて、いいのだと、七瀬に生きていてほしいのだと笑ってくれたことは覚えている。ただ、それ以上がどうしても思い出せない。
 三宙と戦って、七瀬の世界は少し広がった。だからこそ、その世界が広がった理由の中に媒人として立っていたその人も含まれていることに気がつけた。
 だというのに、彼の人の記憶はどんどんおぼろげになっていく。印象が薄いわけでは無かった。七瀬の世界に栄都しかいなかったとはいえ、それでも他の志献官の顔は思い出せるのだ。媒人の顔や声だけが思い出せなかった。
「なーなせー!」
 思考と足を中断させるような声が貫いて、七瀬はやっと足を止めた。そうっと振り返れば、心配と焦りをごちゃ混ぜにしたような三宙が駆け寄っているのが見える。
 探していてくれたのだ、と分かって、どこか嬉しく思えてしまう。
「防衛本部がちょっとした大騒ぎになってたけど、どうかしたのかよ」
「ぼく……ごめんなさい」
「いや詫びの言葉が聞きたいんじゃ無いんだけど」
 三宙は困ったように視線を泳がせてから、次いで、大きくため息をついた。ちょっと悪いことしちゃいますか、と。そんな、明日買い物にでも行かないかと誘うような気軽い色の言葉がかけられる。
「悪いこと?」
「そ、悪いこと。探してもらってる皆には悪いけど、ゆっくり歩いて帰ろうぜ。ちょっと遠回りするくらいゆっくり、さ。こっち方面探しに来てるのは俺だけだし、ちょっとくらいなら大丈夫っしょ」
「でも、大騒ぎになってるって」
「だーいじょうぶ、大丈夫だって。そもそもこんな騒ぎになってるのだって、七瀬が今まで規則違反とかしなかったからじゃん?」
 差し伸べられた手は少しだけ高い位置にある。それがわざとなのか、あるいは無意識なのかは七瀬には分からない。ただ、そうですか、と淡泊な返事を返して手を握り返すことだけは出来た。人の体温が手のひらに伝わって、冷えたからだに熱が移る。
 手を引かれて歩いて、なんとなくいつかの日を思い出した。懐かしいと形容できるほどに古い記憶だ。七瀬は手を引く三宙の背中をただぼんやりと見つめて、それから唇をかんだ。
 痛い。痛い。心がとても痛い。
「……お、見ろよ七瀬。めっちゃ天の川」
「え?……ほんとだ」
「そしたらあれとあれとー、あとあそこか!夏の大三角だ。へー、こんな明かりがある中でも見えるもんだな」
「旧世界では、特に明るい星しか見えなかったって聞きました。天の川とか、明かりの無い田舎か、山の中でないと見えなかったって。なら……」
 七瀬の左手が空を掴もうと緩く伸ばされる。つい、と白い指先が天の川をなぞった。子供に似つかわしくない、武器を握って出来たたこの残る指が、ぎこちなく天の光点をなぞっていく。
 いつの間にか三宙は立ち止まっていた。いつもは騒がしさを好む彼が、ずっと黙っている。
「なら、この空も、あのオーロラも……いつかわすれてしまうの?」
 ぽつりと落とした声は迷子のようだ。
 無きそうなほどに震えた声のくせに、目は乾いて涙すら出ない。
 右手の熱が少しだけ近くなった。力なく下ろされた左手に三宙の視線が注がれて、なんとなく気まずくて七瀬は目をそらした。
「人間の記憶ってのは真っ先に聴覚情報から失われて、それから視覚情報が失われるらしいぜ」
 くい、と手を引かれて再び歩き出す。
 三宙は情報へ目を向けながらそんなことを言って、実際はどうかってのは知らねーけどさ、と無責任な言葉を付け足した。
「だから写真なんてもんが出来たのかもな」
「わすれないように?」
「そ。人間の得る情報のほとんどは視覚情報に依存する。その視覚情報さえ補ってやれば、記憶も薄れない――そんな風に考えたんじゃね」
「……それさえ、なかったら?」
 絞り出すような声で尋ねてみる。
 三宙はなんてことの無いように、そうだなー、と実に軽いトーンで、いつもの調子のまま、言葉を連ねていく。
「書いて残しておく、とか?大昔の人よろしく。後は、どうだろうな。生きてる内だったらたくさん話して、それこそ飽きるくらいに話すくらいじゃね。口伝の物語とか、そうやって伝わってきたんだろうし」
 三宙の口角は僅かにあがっていた。それがなんだか不愉快で、何が面白いんですか、と文句を垂れるように口にする。理由はなんとなく察しがついていたが、それはそれ、これはこれ、というやつである。
 三宙は、案の定茶化すように悪かったと軽い謝罪の言葉を口にするだけだった。
 ――きらきらと、しずかに星がまたたいている。
 この記憶も忘れてしまうのなら、いつか七瀬をこの世界につなぎ止めた人さえ世界が忘れてしまうと言うのなら。
 褪せる前に、一つでも多く語ろうか。
 七瀬は自分が口下手な自覚があったし、きっと栄都の方がうまく言葉にするだろう。存外三宙も話すのが上手いから三宙でもいいかもしれない。
 同じ記憶を持つもの同士で言葉を重ねればいい。
(ぼくは、ずるい。また生きられるのが、うれしいと思ってしまった)
 そこに罪悪を感じられるほどには七瀬の心も成長できた。
 これから歩く道筋に、狭い狭い七瀬の世界にいた彼の人の影が無いなどきっとあり得ない。
「書くんだったら、オレが教えてやろうか?」
「教えてくれるんですか?ならお願いします」
「えっ」
「えっ?」
「いやー、てっきり『馬鹿にしてるんですか』ぐらいは返されるかと……」
「ぼく、そこまで子供じゃありません。それに、三宙さんの方がたくさん言葉を知ってる。栄都兄さまにも聞くつもりでしたし」
「いーじゃん。意外と一那サンとか……いや、やっぱなし。あの人どっちかって言うと読む専ぽい」
 そんな取るに足らない話さえ楽しいと思えたなら、一つでも多く残そうか。
 褪せた記憶は、されど記憶として残っている。消え失せる前に残せれば、それはきっといつまでも残るのだ。
 死せる元素に飲み込まれてなお残ったいつかの物語のように、きっといつまでも。
 この生の先、いつかの自分がさびしくないように。
 星明かりが照らしている道を、手を引かれながら七瀬はゆっくりと歩いていた。