迷子の夢

仁武一那空縁後の一那さんの話。

不思議な夢を見て迷子になっちゃった一那と、そんな一那さんの様子に既視感がある朔と、何も知らないけれど分かっている栄都の話。

ちょっとだけ媒人がでます(雰囲気)。ご注意をば。

「分からなくたって、案外どうにでもなるもんだ。誰だって歩く道なんて分からないんだから」


 からんころん、と音が鳴った。くるりと振り返れば、ただただ薄暗い闇が広がっている。足下ははっきり見えるし、手元だって不自由ないくらいには明るかったが、どうにも先だけが見渡せない。
 からころ、とまるい音がする。誘われるように、ふらふらと足を差し出した。
「――そっちじゃないぞ」
 ぴたり、と足を止める。
「そっちじゃないよ――」
 ぴたり、と手も止まった。
 暗くて明るい奇妙な空間に立ち尽くせば、きゃらきゃらと笑う子供の声が耳についた。
 おいで、おいで、遊ぼうよ。そんな誘いはある意味では心地のいい音となって鼓膜を震わせる。ゆっくりと焦点を合わせるように目をこらす。一寸先はぼやけて見えない。それだというのに足下と手元だけははっきり見えるというのだから気持ちが悪い。
 チッ、と小さく舌打ちを鳴らした。
 どこだ、どこだ、ここはどこだ?
 ここにいるべきではない。ここに留まるべきではない。明瞭になっていく思考が拒絶の意思をたたき出す。それを塗りつぶすかのように子供の声が迫っている。少なくともそういうふうに聞こえていた。
「そっちじゃない。お前が征くべきは、そちらじゃない」
「そっちじゃないよ。きっとまだ、貴方は歩き足りない」
 ふと、甘い声をかき消すかのように重ねられた声が、聞き慣れたものであることに気がついた。
「まだ、来るべきじゃない」
 とん、と。
 実に軽やかに背中を軽く押された気がした。
「……ジン?」

 ふらふらと廊下をさまよう影にぎょっとしたような顔をして、それから小さく頭を振った。嫌悪感はまだあれど、それでも彼はこの結倭の国を救った志献官で、あの鐵司令代理に全幅の信頼を置かれていた男だった。
 とはいえ、長年染みついたそれが簡単に消え失せるわけでもない。話しかけようか迷ったように口を中途半端に開いて、それからふらふらと左右に揺れながら歩いている後ろ姿に盛大にため息をついて大股で背中を追いかけた。
「おい、塩水流一那」
 一那は足を止めるそぶりすら見せない。聞こえていないのか、と舌打ちを鳴らして再度声量を大きくして呼びかける。おい、と無遠慮でとげとげしい声に、やっと一那が立ち止まった。
 ゆるりと振り返ったその顔に一瞬だけ息が詰まってしまう。迷子のような顔だった。
「サク……何か用か」
「いや、お前に用はない。無いが、なんだ」
 もだもだと口から言葉は出てこない。悪意と敵意にまみれたフィルターは、気遣う言葉をきれいにカットしている。素直な気遣いすら言葉に出せない自分に腹が立って、なぜだか盛大な舌打ちを鳴らしてしまった。
 だというのに、ひたすらに朔の言葉を待っている一那がいてなおさら腹立たしくなってしまう。主に自分自身に、だ。一那は前に進んでいる。信頼していた者が亡くなったその先に、きっと望んだ道を歩いている。
「あれっ、一那だ!こんにちはー!」
 びくりと肩をふるわせて振り返れば、邪気の無い笑顔を浮かべて駆け寄ってくる栄都の姿が見えた。
 にこにこと笑っているのはいつものことだったが、今日は殊更に嬉しそうだ。
「ちょうど良かった、オレ、一那にお礼が言いたくて!」
「……礼?」
「そうそう。最近、よく図書室で七瀬と六花の届かない本を取ってくれたり、足りない物資を補充してくれたり、色々してくれてるだろ?見かけたらお礼を言おうと思ってたんだけど、オレ、中々一那と会わなくてさ」
 だから会えて良かったー、と実に朗らかに栄都が言葉を重ねた。
 なんというか、栄都は栄都だな、と朔はすなおに感心する。割と悪評の絶えない男である一那亜相手にコレ。邪気が無いにもほどがある。この男には色眼鏡なんてものはないのだろうな、と息を吐いた。
 馬鹿正直に礼を言って満足している男を見ている内に、肩の力も胸の薄暗い靄もすっかり消え失せてしまった。朔は改めて一那の顔を見据える。栄都の礼を受けて、やや戸惑うように目を由良氏こそしたものの、妙な不安定さはそのままだ。
 体調不良のふらつきというよりは。
 迷子になってしまったかのような顔だった。
「そうだ、サク。サクなら分かるか」
「は?何を」
「夢を見た。……子供に誘われる夢だ。意味が分からない夢だった」
「子供に誘われる夢?なんだか楽しそうだな」
「暗いのに暗くない。子供の姿は見えねえのに、ずっと誘われる。行かない方がいいと分かっているのに足が動く。そういう夢だ」
「……ホラーじゃん!」
 きゅ、と一那の眉間にしわが寄った。唐突すぎる上、要領を得ない問いに、朔もまた眉間にしわを寄せる。
 夢。夢か、と朔は口の中で転がして息を吐く。他人の夢など知った話では無かった。
 ましてや。
 それが兄を殺した人物の言葉であればなおのこと。
 ごぽりと息が詰まった感触がして、朔は喉元まで出かかった言葉を飲み下す。何を言おうとしたのか自分でさえ分からなかったが、それでも口にしてはいけないような気がした。
 それに、すべてが終わって冷静になってみれば分かることもあるし理解できることもある。やっと心が追いついたとも言えるだろう。
 ――何か理由があるんだって。
 内心で舌打ちを鳴らした。全くもってその通りだ。そうでなければ、あの献身的な男が信頼を寄せるはずも無い。
「おい、聞いてんのか」
「朔、どうかした?」
 そうでなければ、喪失を抱えるはずも無いのだ。
 朔はようやく顔を上げて口を開く。僅かな敵意のフィルターにかけられた言葉はとげとげしかったが、それでも歩み寄る意思だけは垣間見えた。そうだと信じたい。
「それで、鐵司令に止められたのか」
「!」
「図星か。……ふん、貴様と同じ、というのも心底腹立たしいが、それは俺にも覚えがある」
 暗い暗い夜道を歩く。おいでおいでと誘う声と、まだ来てはいけないよと、優しく諭す兄の声。
 シチュエーションこそ違えど、夢に見るなら同じ願いに決まっている。
「俺から言えるのは、その夢の理由は自分で気がつかなければ意味が無い、ということだけだ」
「は?おい、サク、待て」
「待たない。俺は用があるから失礼する」
「待て、オレはまだ――」
 振り切るように背を向けた。用があるなど嘘っぱちだ。
 ただ、それでも、その夢の意図はきっと自分で気がつくべきものであると信じて疑わない。だいたい、夢の理由ぐらいならそばにいる栄都が手伝うことだろう。
 知っている。知っている。その夢を朔は、源朔は確かに知っていた。
「……うん、オレも、多分自分で気がつかないとダメなんじゃ無いかなって思う」
「エイトも知ってるのか」
「うーん、知ってるかって言われると微妙なんだけど……あ、そういう意味なら玖苑さんとか知ってるかも!」
「クオン?」
「ろ、露骨に嫌そうな顔するなあ」
 栄都が苦笑を浮かべて、窓の外へ目を向けた。つられて一那も窓へと目を向ける。
 茜色の空は通り過ぎて、染みるような藍に、僅かな赤がにじんでいる。目に痛くは無いが、どことなく寂しい空だと思った。
 もうじき夜が来る。暗くて寂しい夜が来る。
「でもさ」
 ぽつりと栄都が音をこぼす。燃えるような色の髪が視界の端でぱちぱちと揺れ動いていた。
「きっと、皆同じように言うよ」
 一那は瞬きをして、そうか、と頷いた。よく分からないが、栄都も朔も同じことを言うのであればそういうものなのだろう。
 空っぽの己を感じながら、それでも満たされていると感じている。酷い矛盾を抱えながら歩いて、その矢先に見た夢だった。
 だから気になった。あの優しい人たちが拒絶の言葉を吐いた理由が知りたかった。夢は本では無いから、言葉で逐一語ってくれるわけでもないし、後から読み返せるわけでも無い。
 それに、なんだかあの夢はもう二度と見れないような気がしたのだ。
 あそこで背中を押されて、誘われる烽とは逆方向へ歩いたとき、確かに安堵した気配を感じた。それが答えだと直感していた。理由など一つだって分からないくせに、確信だけが横たえている。
「アイツもいた」
「あいつ?……仁武さんとは別に、ってこと?」
「ああ。言っていることはほぼ同じだった」
「分かった、媒人さんでしょ」
「……エイトも分かるのか」
「へへー、まあね」
 誇らしげな口調とは裏腹に、栄都の顔はどこか寂しそうな色を浮かべていた。じわりじわりと赤がしぼんでいく。藍の奥から暗幕が下がっていく。窓から伸びる光だけがぼやけて薄くなっていった。その影を眺めながら、そうか、ともう一度頷いた。
「あれ、もういいの?」
「いい。オレが考えなければ意味が無いんだろう」
「あはは、そうかも」
「どっちなんだ」
「そう!そうです!」
 暗くなった廊下にも栄都の声は明るくはじけていた。ぱちぱちと動きに合わせて揺れる髪を視界に納めて、そのまま外へと出る。
 暗幕には無数の光点が瞬いてた。それを見上げて、ふらふらと歩く。
 暗い。暗い。途方もなく暗い。足下すらおぼつかない夜を歩いて、こんなにも暗いものだったか、と首をかしげた。
 ――そっちじゃないぞ。
 ――そっちじゃないよ。
 ふと、夢の声を思い出す。今歩いているここは現実だ。きらきらと鬱陶しく瞬く光と、真っ暗で手元すら見えない闇が証明していた。
「……そんなに言うなら」
 こぽり。声とはこんなにも出にくいものだっただろうか。
「方向ぐらい教えてから消えろ……!」
 水底にいるかのような息苦しさに言葉を吐いた。ぷかぷかと心だけが宙に浮いている。急に満たされた感情に戸惑う心だけが泣いていた。
 仕方がないやつだな、と苦笑する気配が揺らめいた気がして舌打ちを鳴らす。どこまでも自分勝手なヤツだ。自分勝手で、優しい人だ。
 からんころん、と音が聞こえた。振り返っても誰もいない。ただ、その音について行くことだけが正しいわけでは無いことだけを知っていた。
 ああ、そういえば。今更ながらに思い出す。カラコロという音は、よく聞いていた。下駄と地面が擦れる音に似ているのだ。
「……世界は、そんなにヤワじゃない」
 最期の言葉だけが深く深く根付いている。ちかちかと揺れる街灯の元まで歩けば、手元はもちろん、足下だってよく見えることに気がついた。
 ――そっちじゃ……
 こぽり。こぽり。感情だけが喉奥までせり上がっては引っ込んでいく。
「ハ」
 代わりに、言葉だけが滑り落ちていく。中身の無い、意味の無い言葉だけがぽろぽろとこぼれて消えていった。
「どうやって探せっていうんだ」
 まったく、優しいくせに不器用だ。そんなことを言うのなら、死んだ後にも顔を出すのなら。歩き方ぐらいは教えてくれたって良かったのに。
 一那はまたふらふらと足を踏み出して、ぽつぽつと立つ街灯を辿るように歩いて行った。