熟して褪せた言葉

仁武と十六夜が特選志献官にはならなかった世界線 50日を乗り越えたその少し先の話。

リスペクト先:魔法使いの嫁
「言葉は時間を経るほど熟していくものではあるが、時間が経つほど色褪せていくものでもあるからね」
――ならば、失って喪って、吐き出したかった言葉を飲み込み続けてきた彼らは何を吐き出せるのだろう?


 世界の滅亡は回避された。
 多くの志献官という存在を犠牲にして、旧世界の総人口から考えればほんの一握りの生き残りは守られた。
 仁武は志献官だった仲間たちがそれぞれの道に進み立ったことを証明する書類を並べて、それから小さく息を吐く。
 何もかもが終わったのだ。
 もう誰かを失うことはない。あるとすれば不慮の事故か老衰か。いずれにせよ、デットマターとして消えてしまうよりずっとましな結末だろう。
 ギイギイ、ギイ。
 内側から錆の音がする。
 全部終わったのだ。
 もう終わったのだ。
「――終わったのか」
「なあに、感傷に浸っちゃって」
「十六夜……」
 相変わらず微妙に胡散臭そうな笑みを浮かべた硫黄の志献官が書類を覗き込んでいた。十六夜は隠居組で、この後少し休んだら温泉巡りをしに各地を巡る予定だという。
 もっとも、温泉巡りはただの名目で、どうせ各地の復興の助力をするのだろうが、口に出すのは野暮だろう。
 仁武は口を少し開いて、閉じる。思うことは腐るほどあったが、そのいずれもが言葉という形を纏うことはない。
 胸の内で凝り固まった思いは、言葉にするにも色あせ過ぎた。されど、抱えるにはあまりに熟れた思いで、それらは確かに仁武の心の質量を増させている。
「いえ、ただ……」
 感傷に浸っていたのは事実だ。

 終わったのだ。
 救えたのだ。
 これまでの犠牲は無意味などではなく。
 多くの帰らぬものを嘆いて、絶望して、縋って、そして確かに世界は救われたのだ。

 そこまで思って、身体から力が抜けきっていることに気が付いた。
 防衛本部はじきに解体される。そうされるように、仁武や十六夜たちが手続きを進めてきた。
 膨大な記録はしかるべき場所へ。同じ過ちを二度と繰り返さぬよう、後世に伝えられていくことだろう。
 多くの志献官も既に向かう場所、返る場所を見つけている。残るは仁武だけだが、その仁武だって帰る場所がある。
 ただ、どうにも落ち着かない。
 力は抜けている。もう戦う必要はないのだと理解はしている。
「酷い話ではありますが――俺は、どうやら惜しんでいるようです」
 十六夜が小さく目を開いて、次いでクツクツと愉快そうに笑った。わかるわかる、と軽い声が司令室を転げまわった。
「なんていうかさ、実感わかないんだよね。いや、実感はあるんだけどさ、そういうんじゃないっていうか」
「まったくもって嫌な話ですがね。世界は確かに救われた。デットマターなんて、もう影も形もないし、防衛本部も近日中に解体されるっていうのに」
 わやわやとした感傷を述べる十六夜に苦笑しながらそう言えば、いつだって掴みどころのない先輩はおかしそうに笑った。
 仕方ないさ、と。
 俺たちはちょいと戦い過ぎたからねえ。
 そんな、取るに足らない言葉をこぼす。
「そういや、仁武はどうすんの?実家に帰って親孝行?」
「……そのつもりです。働くにしても、流石に限界が」
「『錆化』、治す手段がありゃあ……いや、流石に野暮かね」
「そんなすぐに見つかっていたら、鉄の志献官はもっと長命でしたでしょうね」

 終わったのだ。
 ……終わったのだ。

 確かに世界は救われた。
 そうしてまた己は生き残った。
 されど残された時間はあまりに少ない。
(生き残るべきは、俺だったのだろうか)
 結末は変わらない。生き残ったものは生き残ったのだ。だから後悔することも振り返ること許されぬ。それは死んでいった者たちへの冒涜だろう。
 仁武は最後の書類を今度こそまとめてモルに渡す。これで正真正銘おしまいです、と。区切りをつけるように吐いた言葉は自分でも驚くほど穏やかな色を帯びていた。
「お疲れさん、俺」
「何ですかそれは。……ああ、お疲れさまでした」

 かつて世界は滅亡しかけたらしい。
 そんなことを言われたってわからない。
 自分のご先祖様の長兄は、どうやらその世界を救った立役者のリーダーだったそうだ。
 んなこと言われたってなおさらわからない。
 ただひとつわかるのは、その人が文字通り鉄のような硬い信念を持っていただろうということだけだ。
 中学校の歴史の教科書にさえ、見開きページでまとめられるいつかの英雄たちの名を書き連ねる。次のテストは丁度この時代だった。
 水素、酸素、リチウム、ベリリウム、窒素、炭素、フッ素、塩素、硫黄――そして、鉄。最後に触媒。
 計11名の、たった11名の人間が世界を救ったなんて、フィクションもいいところだ。現実は小説よりも奇なりとはよく言ったものである。
 教科書のページの隅、鐵仁武が書いたという手紙の写真の下にある小さな文章は黄色いマーカーで印がつけられている。大事だからな、と先生が繰り返し言っていたから、嫌でも記憶に残っている。

『デットマターとの戦いを終えた志献官は、それぞれが世界の復興のために尽くしたという。その中で、鐵仁武は既に身体的に限界が来ていたことから、「せめて自分にもできることを」という一心で各所に支援を請う手紙を書きながら、志献官の戦いを記録に残した。それが現在この教科書や物語の元となっている。その名と適性元素の通り、鉄のように硬い意志を持った男であったと、清硫十六夜は書き記している。』