明日が怖い夜にはこんなふうに

50日の少しあとの話。メンタル限界の仁武さんと便乗して泣きに来た玖苑さん。
※ぼかしてますが首が落ちてる描写と嘔吐の描写があります。
※かっこいい仁武さんはいません。

空縁かもしれないし彩縁の後かもしれない。
少なくとも仁武と玖苑は特選志献官ではない世界。
結局本筋にかかわれず、ずうっと残されてきた二人が、やっと最後にこぼせた弱さの話。

「でもまあ、それでも明日はやってくるんだ。やることは山積みらしい」
「いい加減過労で倒れそうだな……」
「それはいいね!過労を言い訳にして休むといいさ」
「……それはそれでありかもしれないな。もう、志献官が命懸けで戦う必要も、ない」
「ははっ、本当にそうだ。最高じゃないか、仁武?」


 どろりとした感触を、手を彩るペンキを、ただただ呆然と眺めている。呆然としている暇は無いことは承知しながら、しかし心が追いつかない。
 ぽた、ぽたん。
 嫌味なほどに穏やかにペンキが手から流れて落ちる。それを、ただただ寒々しい心で眺めて、ゆっくりと両の手を握った。
 ぽた、ぽたん。
 断片的な水の音が不快で仕方がない。濃厚な色とは裏腹に、嗅覚を刺激するものが全くないことに気がついた。
 ぽた、ぽた、ぽたん――
 これは夢だ。確信しながら、覚めることは叶わない。浅くなった呼吸を整えようと口を開いて、はくはくと酸素を求めるように下手くそな呼吸を試みた。
 ぽとん。
 間抜けな音に顔を上げる。見慣れた人影がすぐそこに佇んでいた。
 その人間の名前を知っている。されどその名前は喉の奥でつっかえて出てこない。
 じわりじわりと足下からペンキが広がっていくのが分かって、なんとなく、目をそらすように視線を下へ向ける。
 そうして。
 視線を向けたその先に。
「……っ!」
 息も出来ないとはこのことだろう。呼吸を忘れるような衝撃とはこのような衝撃のことを示すのだろう。限界まで目を見開いて、間抜けな音の音源をただただ眺めることしか出来ない。
 汚らしい赤いペンキが染みこんだ金の糸、ぱかりと開けられた青い眼球。よく、よく、見知った顔。
「あ、ああ」
 一歩後ずされば、ぎょろりと落ちた首の目だけが動いた。
 これは夢だ。途方もない悪夢だ。それぐらい分かっている。それでもこの夢から覚めることは叶わない。
「どこへ行くんだい、仁武?」
「――あぁああああああ!」
 時刻は深夜二時。草木も眠る丑三つ時だ。先の悲鳴で姉弟たちは起きなかったらしい。その事実に僅かに安堵して、浅くなった呼吸を整えるように息を吸う。
「っは、は、はは……」
 あまりの情けなさに乾いた声がこぼれ落ちた。とんだざまだ。とてもでは無いが、部下に見せられたものではない。
 そこまで思って、滑稽にもほどがある、と自嘲的な笑みを浮かべた。部下など仁武にはもういないのだ。
 寝間着は汗を吸ってぐっしょりと濡れてしまっている。無理も無いか、と未だに脳裏にこびりついた最悪の光景を思い出し、小さく頭を振った。
(どうかしている)
 仁武は音を立てないようゆっくりと立ち上がり、適当な衣服に着替えて自宅を離れた。ギイギイと内側で鳴る音は錆の音だ。いつもはただ苦痛なだけのそれが、今の仁武にとっては癒やしにさえ思えてしまう。
 防衛本部は解体された。志献官はそれぞれの道を見つけて歩き出している。失ったものは数あれど、それでも舎密防衛本部はデッドマターという未曾有の災害に打ち勝ったのだ。
(その先がこれか……)
 一歩、また一歩と重い足を進めていく。アテがあるわけでは無く、ただ悪い夢から逃げるように足を進めていった。
 結局、もう誰も失わないと決意しながら、一人の犠牲を強いてしまった。それが彼の人の願いであったとしても、仁武の心には深い爪痕が残る。
 一歩、二歩。見知った風景が過ぎ去っては近づいていく。その末に見えたのは、自分がよく癒やしを求めて足を運んでいた場所だった。
 真夜中の庭園は途方もなく静かだった。仁武の足音すら響くような静寂が、ただそこに広がっている。雲のない夜空には星が小さく瞬いていて、歩を止めれば僅かな風に揺れる草花の音さえ聞き取ることが出来た。
 それが、どうしようも無いほどに苦痛に思えた。食道をせり上がって来るものを飲み込もうと、咄嗟に口に手を当てた。うっ、と嘔吐いて、王都だけはするまいと口を固く閉じる。口内に無味の液体が大量に広がって、耐えきれずその場にうずくまった。
「あれ、仁武?どうしたんだい、そんなところで。小指でもぶつけたのかな」
 耐えていたものが声で決壊した。うっ、と小さなうめき声と共に、びちゃりと口から黄緑色の液体が吐き出される。そういえば、今日は食欲が無いからと夕飯を食べていなかったことを思い出した。
「ええ、ここで吐くなよ、まったく。土でもかけておけばいいかな」
「……く、おん」
「うん、いつも完璧な舎利弗玖苑だよ!で、真っ青な顔をして何をしているんだい、仁武?ボクはまださっきの答えをもらってないよ」
 さらさらと流れる金の髪には汚れ一つ無い。心配そうにこちらをのぞき込んでくる青い目二以上は無い。口からこぼれる言葉は仁武を心配する言葉たちだ。
 浅い呼吸を繰り返して、やっとの思いで口を開いた。
「眠れなかっただけだ」
「嘘だ。こんなに見え透いた嘘をつくなんて、ごまかせるとでも思ったのかい?」
 ひたすらに静かな目が、いっそ穏やかな色を称えて仁武の赤茶の目をのぞき込んでいる。
 とはいえ、先ほど玖苑の首が落ちて名前を呼ばれる最悪な夢を見ました、などと馬鹿正直に申告する気にもなれない。話すのは、まあ百歩譲って構わないにしても、それを当人に話すのだけははばかられた。
 話す気がない仁武に飽きたのか、玖苑は一つため息をついて立ち上がる。ざりざりと周辺の土を仁武の吐瀉物の上にかぶせていた。
「せっかくだし、夜のデートと洒落込むのはどうかな。眠れないのはボクも一緒でね」
 酷く酷く静かな空間に、きらきらと玖苑の声が瞬いた。
 よし行こう、すぐ行こうと言わんばかりに玖苑は仁武の腕をひっつかむと、そのままずりずりといつもの白いベンチまで引き摺っていく。おい、と抗議の声を上げるもガン無視だ。
「というわけで、夜が明けるまで座っていよう」
「は?」
「座る以外やることも無いからね。何もしない、という贅沢だって今のボクたちには許される」
 違うかい、と穏やかな声が耳をかすめてしみていく。仁武はその問いに何か返そうとして、しかし口は一つも言葉を吐くことは無い。
「やらなければならないことももう無いんだ。自分のためにやりたいことを見つけたっていいんじゃ無いのかな」
「座るだけじゃ無かったのか?」
「おしゃべりくらいいいだろう。それで?一つも無いのかい?」
「そういうお前は――」
「聞いているのはボクだ」
「……」
 身体を動かしていれば感じなくなるような微風が頬を撫でている。仁武は少し考え込んで、困ったように肩をすくめた。
「生憎、探している途中だ。情けない限りではあるが」
 数度言葉を交わす内に、随分と身体が軽くなった気がする。もしかしたら、何もやるべきことが無いという現状に参っていただけなのかも――そんなことを思って、はたと気づく。
 ぽた、ぽたん。
 聞こえるはずも無い水の音だ。
「――は」
 ぽた、ぽたん。
 夢のような不快感は無い。ただ、酷く酷くしみるような寂寥感だけが胸の内に溜まっている。
 ぼやけた視界を拭えば、下がった視界に玖苑のズボンが目に入る。いくつかの乾ききらない遠景の染みに、仁武は思わず目を見開いた。
 見開いた拍子に再び視界がぼやけて、慌てて手でおさえる。目蓋では抱えきれなかった水が、それぞれの服に染みを作っては消えていった。
「ああ、やっと流れたね」
 何を、とは言わなかった。あえて玖苑の顔を見てやる気は起きず、しかし自分ばかりうつむいているのも癪だったから、無理矢理に顔を上げた。
 頬を撫でる風が体温を奪っていく。
 ぽた、ぽた、ぽたん。
「ボクはしばらく各地を巡ってみるつもりさ。完璧なボクが赴けば、復興の手助けになること間違いなしだからね!」
「はいはい、そうだな……」
「仁武は手紙でもだせばいいんじゃないか。元司令代理なんだ、権限は無くとも権威くらいは残るだろう?」
「そうかもしれないが……何ともな」
 苦笑と共にこぼれ落ちるものを自覚する。恐らく吐く恩も同じだろう。普段と変わらない調子で、しかし声だけはかすかに震えている。
 ぽた、ぽたん。
 こぼれ落ちるたびに都度、胸の寂寥感が増していく。
 酷く静かでうるさい夜に、仁武はようやく思い至る。
 どうやらまだ自分はあの日々に生きていたらしい。
 ぽた、ぽた、ぽた。
 落ちていく雫を眺めて、はは、とただ笑みをこぼした。
「たまには悪くないね」
「たまに、ならな」
 そんな、世界が平和になった後の、明日が怖い夜の話。