序・てつくずのゆめのあと

 風一つ吹かない、暗くて静かな夜の中にその男が佇んでいた。外套は黒。髪の色は白。月すら浮かばない夜の闇に紛れて人相は認識できなかった。
 ものも言わず、動くことも無く、ただどこかを眺めるように突っ立っている。その姿を見つけて、声をかけようかと手を伸ばして、下ろした。なんと声をかければ良いのか分からなかったのだ。
 じい、と佇んでいる姿は彫像のようだった。風も無いから外套や髪が揺れることさえ無い。
 そしていくらか悩んだ後、それでもあそこに佇んでいるのは人間であるという確信があって、手を伸ばした。今度は手は下ろさなかった。かける言葉が分からなくとも、手を引くことくらいはできるはずだろう。
 ――手を引く?
 ふと疑問に思ったが、それを深く考えることはしなかった。ただなんとなく、手を引く、という言葉が浮かんだのだ。ならばそういうことなのだろう。
 伸ばした手が男の腕に触れる、その刹那。
 ざあ、と唐突に風が吹いて、雲の切れ間から顔を出すように淡い光が地面に落ちた。
 悲鳴を上げる余裕も、あっけにとられたような声を出す暇も無く。
 男だった影は鉄くずとなって消え失せてしまった。

「っちゅう夢を見たんやけんど、心当たりはあるかえ?」
「無いが」
「嘘じゃの」
 全くもって信用が無いな、と苦笑を浮かべれば、近侍の席に座る刀の付喪神は心底あきれかえった目を向けた。
 陸奥守吉行は燃えるような橙色の目に呆れと諦めを浮かべて、それから大げさなため息を吐いた。相変わらずの頑固者じゃ、と聞き覚えのある苦言を吐く。
 審神者は僅かに眉間にしわを作ると、小さく頭を振った。別に陸奥守の言葉が癪に障ったわけでは無い。ただ己の内の何かに触れるものがあって、形容しがたい違和感に眉間にしわを寄せたのだ。
「まあ、今はどうでもえいか」
「なら聞かないでくれ」
 そう言ってみせれば、すう、と近侍の目が細められる。
「聞けるときに聞けるもんは聞いちょくもんぜよ。特に、おんしみたいな阿呆は聞けるときに聞かんと手遅れになるきに」
 言葉の温度は酷く低い。そのあたり、陸奥守という刀はとことん審神者を信用していない。それもまた仕方のないことであると自覚しながら、それでも吐き慣れた言い訳の言葉を連ねていた。
「散々な言いようだな。別に、勝手に姿をくらませもしないし、この席から降りるつもりも無いんだが」
 より正確に言えば「意地でも降りない」が正しい。それを陸奥守とて承知しているからこそ、だからじゃ、と盛大にため息をついた。
 一言で言えば、危ういのだ。執着するかのようにこの任にしがみつく様ははっきり言って異常だ。その背景となるはずの記憶が漂白されてなお、この男は歴史の守護に執心する。
 その理由を陸奥守吉行は知らないし。知る術もない。当人すら知らない理由をどうして知ることが出来るだろうか。
「くらませかたも覚えていないといった方が正しいか」
「笑えん冗談やの」
 書類をひらひらと振りながら審神者たる男は面白そうに笑った。何が面白いのかは分からなかったが、彼なりの冗談のつもりだったのだろう。
 赤銅色の目が壁に掛けられた丸いアナログ時計に向けられる。短針も長針も上へと向かっていた。もう少しで秒針を含めた三つの針が重なるだろう。
 音も無く回る時計の針を二人して眺めて、やっと重なる姿を見届けると、男は盛大に嫌そうなため息をついた。手には赤い蝋で封がされた封筒がある。アナログだが、確かに機密を維持できる情報伝達手段であることは認めよう。
 封筒には機密書類という字と共に、開封許可時刻が印字されている。指定の時刻は十二時ちょうど。それ以前に無理に開封すれば発火して、中の書類もろとも灰になるという中々物騒な術が刻まれているらしい。
 びり、とためらいなく男が封筒の蝋を剥がす。
「カッターくらい使えばえいろう」
「読めれば一緒だろう。カッターは、以前、中の書類ごと切ってしまって以降使ってない」
「レターオープナでも買い」
「無くても事足りるからな……」
 几帳面なところは几帳面な癖してコレである。正直分からなくも無いが、と陸奥守が呆れに苦笑を浮かべたあたりで男の顔が僅かに曇った。
 こういった機密書類に目を通すのはいつだって審神者が先で、そのあとが陸奥守だ。指揮系統的な意味でも当然と言える。
「なんじゃ、なんぞおかしなことでもあったか」
「いや……無い、と思う」
 読め、と差し出された書類に目を通しながら主たる男の顔を窺う。何か思い悩むような顔色の悪さに、どうにも不安があおられて仕方がなかった。
 今の今までおぼろげだった主が、急に見せた戸惑いだ。この十年間、そんなことは一度だってなかったのだ。
 それもおかしな話ではあるが、暗黙の了解のように主の異常は見て見ぬ振りを貫かれてきた。それは陸奥守の指示で、主の意思でもあった。
 陸奥守は主から紙面を受け取り目を通していく。そうして資料を読み込めば読み込むほど、怪訝そうな表情を浮かべて首を捻っていた。
「んん?機密にするほどのもんかえ、これ」
「さてな。いつぞやの放棄された世界と似たような案件なのかもしれないが、末端では知る術もない」
 耐えきれずにそんなことを言ってみれば、非情に淡泊な答えだけが返ってきた。その言葉とは裏腹に主の顔色は最悪だ。
 いつもゆめうつつでふたしかな主の何かに触れたのだろう。いい兆しであれば良いが、とてもそは見えなかった。
「思うところでも――」
「無い」
 息苦しそうな声で問いは遮られた。
「無い、はずだ」
 そう言いながら、主の顔色はどんどん悪化していく。体調不良に起因するものでは無いことだけが明らかだった。
 陸奥守は紙面にもう一度目を通す。いつもの特命任務だ。この本丸に命じられる任務と違うのは、本作戦参加が「任意」であるという点。
 いつもの部署から回ってきた仕事では無いらしい。随分と親切そうな書類と資料に陸奥守は目を伏せた。
 好機かもしれない。この本丸にとっても、主にとっても。
 特命任務、作戦名「暁天」。
 指令、歴史の改編および「分史」の発生を阻止せよ。
「備考……ほおーん、本作戦は他本丸との合同作戦になっちゅうがか」
 備考、本作戦は「むすひ本丸」との合同作戦とする。
 他の本丸との合同任務など、それこそ大侵寇以来だろう。あれもあれでまあまあ中々大事ではあったのだが、この主の様子は相変わらずだ。それが良いことなのか悪いことなのかは、まだ分からない。
 とはいえ、だ。ここ十年の間変化の無かった主に訪れた明確な異常をみすみす見逃してやるわけにも行かないだろう。
「わしはこん任務への参加に賛成するぜよ。主、おまんはどうする」
「俺、は……」
「わしの意見は賛成っちゅうだけやき、決めるのはおんしじゃ」
 主たる男は迷いを目に浮かべながら、陸奥守の手元にある書類へ目を落とした。未だに主の手の中にある封筒だけがくしゃりと音を立ててしわを作っている。
 そうしてさして短くも無い沈黙が流れて、男はやはり酷く息苦しそうに口を開いた。
「断る理由も無い」
「迂遠な言い回しやの」
「……受けよう。これでいいか」
「がっはっはっ!おんしもそがな顔するんやねえ。おもしろいもん見せてもろうたぜよ」
「俺は見世物じゃ無いんだが……第一、そんなに面白いものでも無いだろう」
 けらけらと笑う姿が珍しかったのか、男は僅かに驚いたような顔をしながら苦笑した。浮かべ慣れた表情に見えたのは気のせいか、あるいは本当にそうだったのか。
 このような戯れが多い道行きであったのであれば、まあ、悪い話では無いのだろう。
 夏の始まり、もうじき梅雨が明ける、まだ湿っぽい空気の執務室の中の話だった。
 とある本丸が、とある特命任務を受諾した。その報せを受け取った依頼主はつい嘆息をこぼして首を捻る。なるほど確かに彼の本丸の主の言うとおりになった。それは認めよう。
 されど、あの本丸の主が絶対に必要だという情報はどこから得た者だろうか。異常者に良くある第六感か、あるいは彼の本丸の主の特性に由来する確信の類か。
 あの目は後者だろう、と役人は緩く首を振った。この任務の結末が吉と出ようが凶と出ようが関係が無い。
 所詮は他人事ならぬ、知らぬ世界の話なのだ。時の政府が管轄する正史とはまた違う歴史を辿った、いわゆるイフの世界。もしもの歴史。
 守れなかったところで差し支えないのだ。
「――結いの目は硬く、脆く、ですか」
 つまるところ、政府としては心の底からどうでもいい任務。それをわざわざ特命任務と称して、成績優良な本丸にねじ込むのは中々骨が折れた。それも、彼の本丸の特異性が無ければ不可能だったことだろう。
「こちらも可能な限り手助けはしますが、あまり期待はされないよう。組織というものは、貴方が思うよりもしがらみが多いのです」
 しゃん、と髪飾りが揺れた。
 大丈夫ですよ、と通信越しのくぐもった音声が届いて、役人は疲れ切ったように机に突っ伏すと、深く深く息を吐き出す。損な役回りだな、と思うと同時に、あの本丸の主も気苦労が絶えないことだ、という同情を覚えていた。
「硬く、脆く――……解けぬように、また結わえるように」
 せめて。
 彼の本丸の孤独な主の祈りが聞き届けられることを祈ろうか、と役人は疲れに身を浸すように目を伏せた。