主従の縁

 随分とご機嫌な鼻歌が耳に入って、足を止めた。薄い障子の奥には主たる青年の執務室がある。こぢんまりとした部屋の中に、机と本棚、それから仮眠用の薄い布団が置かれているだけの部屋だ。
 孫六兼元という刀剣男士は顕現して日も浅かったが、それでもその主人が鼻歌を歌うほどご機嫌な日が珍しいことぐらいは知っていた。何か良いことでもあったのかね、と素通りしようとしたが、ふんふん、という明るい曲調の小さな鼻歌に、好奇心が勝った。
 まあ別に、いきなり戸を開けたくらいで腹を立てるような人間でも無い。いささか無表情が過ぎるが、あの主人はどちらかと言えば平和主義で穏やかな性格をしている。内向的かと思えばそう言うわけでもない。どっちつかずでありながら芯はある。頭もそれなりに切れるが、かといってうぬぼれるわけでも無い。主に恵まれたのだと思えるほどには、孫六は当代の主人を気に入っていた。
 障子に手をかけて、入って良いか、と声をかける。少しの間があって、構わない、という回答を聞いた。
「なんだ、いつも通りの仏頂面だ」
「……文句を言いに来たのか?」
 眉間にしわを寄せて青年が言う。座ったまま、空中に半透明の板を浮かべている様が孫六にはまだ新鮮に映る。知識として知ってはいても、直接見聞きして触っていたわけではない。こうして肉の殻を得て、己の肉を通して見聞きする世界は恐ろしいほどに刺激に満ちている。
「いいや? 鼻歌が聞こえたものでね、何かいいことでもあったのかと好奇心が刺激されただけさ」
 ぴくりと肩が震えた。それから青年は目を泳がせて、酷く気まずそうな顔をする。
 はて、と内心で首をかしげたが、主人は僅かに顔を曇らせただけで口は閉じたままだ。何かを言おうとしているのか、もごもごと口元が動いているようにも見えるが言葉は一向に吐き出されない。
 なんぞ、地雷でも踏み抜いたか。障子越しに聞こえたご機嫌そうな様子は見る影も無い。人の心とは難しいものだと苦笑を浮かべてみせれば、主人はなぜだかほっとしたような顔をした。

 当代の主は孫六が顕現するほんの数週間前にこの本丸に赴任したのだという。それまではただの一般人として生きていたが、何かの折、審神者としての適正検査かなにかに引っかかって今に至るのだという。
 主人は、そのことをあまり話したがらない。顕現したばかりの孫六はといえば、別に無理に深入りするほどの話でも無い、とあえてその話題に触れることも無かった。
 ただ。ただ、そう――一つ、気にかかることがあるとすれば、だ。
 細くてもろい縁がつながる感触を辿り、己の意識が刀から人へと変容していく奇妙な感覚をなぞって、そうして目を開ける。刀剣男士として与えられた肉の殻は、思うよりも違和感は抱かなかった。
 決まり事のように、あるいは赤子が産声を上げるように、口がひとりでに開いて、朗々と名乗りを上げる。そうして初めて己が肉の殻を得て、人に使われる刀として顕れたのだと自覚したとき、目の前に突っ立っていた主人はただただ呆然としていた。その様を、よく覚えている。
「……主人? 聞いてるのか」
「――うん、聞いている。まさか、こんなに早く来てもらえるとは……思って、いなかったものだから」
「ああ、なるほど。それじゃあ、縁があったってことで、ひとつ。よろしく、今代の主人殿――って、待て」
 周囲には誰もいなかった。いや、いたはずだ。当時近侍だった白山吉光がそばに控えていたはずだが、その瞬間は確かにいなかった。鍛刀部屋の中には、顕現したばかりの孫六と、ぼろぼろと表情を変えずに涙をこぼす主人と、既に顕現済みであるが故に依り代だけで顕れた刀がだけがあった。
 泣くほどか、と思わず小さくこぼせば、眼前の青年は初めて自分が泣いていることを知ったかのようにこぼれる雫を手のひらで掬った。ほんとうだ、と見た目の割に幼い声がこぼれ落ちて、すまない、と誰宛かも分からぬ謝罪の声が静かに響いた。
「ああ、うん……うん。よろしく、孫六兼元」
 されど声は震えること無く刀へ向かって投げられた。男にしては、やや高めの声。小さな声量。されどまっすぐとした、力のある声だった。

 それが最初の話。孫六が顕現して初めて目にした主人の姿だ。呆然と佇む姿、泣いていることさえ自覚出来ずに涙をこぼす姿、あるいは――その上で、己の軸を手放さずに立つ姿。矛盾だらけで痛々しく、されどよく見知った、親しみさえ覚える在りようだと思った。
「事務仕事の見物など、面白くも無いだろう」
「まあ確かに面白くは無いが」
「そこは嘘でもそうでもないとか言え」
「嘘言ったところで機嫌悪くなるだけだろう、あんたは」
「……八つ当たりだ。すまん」
 くしゃり、とますます表情が曇ってしまったのがどうにも気に食わなくて、ふむ、と外へ目を向けた。締め切っているのは好きでは無いのか、庭側の障子は開いている。日は南天をちょうど横切って、西側へ向かっている最中だった。
「八つ時だけに?」
「はったおすぞ」
 ぐしゃ、と音が聞こえてから、やべ、という焦った声にくぐもった笑い声を上げた。恨めしそうな視線を向けられたが、くしゃくしゃに曇った顔よりは随分とマシな表情だったので文句は無い。
 この場合文句を言いたいのは審神者の方であるだろうが、当代の審神者はその手の文句はあまり口にしなかった。
「で、ご機嫌だった理由くらいは聞いても良いだろう?」
 思わず握りしめてしわを作ってしまった紙書類を伸ばしている主人に聞いてみれば、盛大なため息が返った。
「別に……」
「言いたくないなら、深く突っ込みやしないが」
 いや、と主人は重たい口を開く。自ら話したくは無いが、かといって口を閉ざすほどの訳でもない理由、といったところだろうか。
「……夢を見なかったんだ」
 それだけ、と話を切るように主人は口を閉じた。それ以上は語りたくないらしい。
 そうかい、と相づちを打って斜め後ろに腰を落ち着けた。物言いたげな視線がよこされたが、主人はとがめもしなかった。半透明の、いかにも現代らしい板とにらめっこしながら事務仕事を淡々と処理している。本丸という施設の核であり、唯一の人間である主人の仕事量はまあまあ多いらしい。
 遠くから生活音が混じり合って聞こえてくる。木刀の打ち合う音、駆け回る音、はしゃぐ声と鍛錬にいそしむ声、あるいは他愛も無い話声に、何かに盛り上がって笑う声。いずれもが、この執務室では遠く聞こえた。
 いささか寂しく思えたが、これが主人の思う適切な距離なのだろう、と思っている。現に、何かにつけて宴会が開かれては主は早々に退室してしまう。
 居心地が悪いのか、あるいは単にお祭り騒ぎの渦中にいるのが好きでは無いのか――おそらくは、両方だろう。ちなみに孫六は割とどちらでもいい。お祭り騒ぎは嫌いでは無いが、かといって渦中でどんちゃん騒ぐのもなんだかなあ、というくらいだ。酒は好きだが、呑まれるのは好きでは無い。どちらかと言えば、比較的大人しい連中とゆっくり飲み交わす方が性に合う。
 主人がぼろぼろと涙を流したのは孫六が顕現したのが最初で最後で、それ以降孫六は主人が大きく表情を変える様を見たことが無い。顕現してすぐに近侍を拝命したが、この主人は大抵この調子だった。
 まあ、連日の出陣も手合わせの内番もむしろ好都合なので何も言うことはない。近侍のやることと言えば、主が処理しなければならないいくつかの事務仕事の手伝いと、鍛刀の立ち会いや刀装の補充くらいだ。文句は出るはずも無かった。
 刀としての、道具としての本能か、使いたいと求められることに嫌悪感は抱かない。むしろ幸福感にも似た感覚が湧き上がることを自覚している。
 古くからいる、修行を終えて相応に研鑽をしている刀よりも、己を求められたのだ、という優越感さえ抱いていた。己が現代に至るまで人に愛されて求められてきた刀であるのだ、という自負もある。
「多くの物語に呑まれることは無いのか」
「は?」
 不意に、そんなことを聞かれた。
「答えたくないなら無視してくれ」
「答えたくない以前に、質問の意図がな……それはあれか、己の拠り所を見失うのか、って問いと捉えて相違ないか」
 顔はこちらに向けず、変わらず事務処理を進めながら主人が浅く頷いた。絶妙に意図は外しているが、かといって的外れというわけでも内らしい。自分でも何を聞きたいのかおぼろげなのだろう。
 孫六は、そうだな、と外に目を向けながら口を開く。
 孫六兼元、という刀剣男士は特定の刀を依り代にした男士ではない。数多くの「孫六兼元」の物語の集合体であり、「孫六兼元」という刀を使用した人間の物語の寄せ集めだ。その在り方は物語を集積した一文字宗則や、数多くの「同田貫正国」という刀の集合体である同田貫正国の在り方に近しい。
 故に、多少のことでは揺らがない。代わりに、己の拠り所が多すぎて見失う。主人の言うことは、答えとしては肯定になるだろう。
「全くない、といえば嘘になる。だが、そのことを憎く思っているかと聞かれれば、別に何とも、とってところだな」
 そう、と短い相づちが返った。
「枝葉、あるいは根。それらは俺たちが存在した証拠で……どこぞの誰かさんの言葉を借りるのなら、愛、というやつだからなあ。否定する理由も無いだろう」
 一文字宗則はその物語を「根」と呼んだ。孫六兼元はその物語を「枝葉」と称する。主人たる青年はそこで初めて振り返ると、愛、と小さく繰り返した。色彩の淡い目が、何か諦めたような、嘆くような――あるいは、怒り狂うような熱を秘めている。
「おまえさんはどうなんだ」
「俺は……どうだか」
「一般人だと言い張る割に、足音が無い。体幹もしっかりしているし、筋力もそれなり。これは聞いた話だが、どうやら術士としての腕も相応らしいじゃないか、なあ。それにそのタコ……」
 主人は一瞬目を丸くして、それから眉を下げて肩をすくめて笑みを浮かべた。仕方のない刀だ、と言わんばかりの、柔らかな感情が揺れている。
「義務的についたものだ。そういうんじゃない。お前が期待するようなことは無いよ」
 ペンを握らない方の手にある、不自然に皮膚が硬くなっている箇所を右手でなぞりながら主人は口にした。
「そいつは残念だ。せっかくだから、一つ死合いでも、と思ったんだが」
「今字面が違っただろ。おいこらこっち向け」
「ははは、試合だ、試合。それ以外に何がある」
「……肥前忠広」
「おっと、聞かれてたか」
 そういえば戦場の様子は一部しか見れないが、運良く見える場合もあるらしいと聞いていた。よもや聞かれているとは思うまい。
「だいたい、人間が刀剣男士に勝てるかよ」
 宙に浮いた半透明の板に向き直って、呆れたような言葉が落とされた。そうかい、と頷きながら、孫六の口元は弧を描く。
 勝てるかよ、と言うか。刀相手に、ただの人間が。相手にならない、ではなく。敵わない、でもなく。
 好戦的なことだ。実に孫六兼元を招いた主らしいことで結構である。
 遠く聞こえる穏やかな生活音に耳を澄ませながら、音の小さすぎる主人に目を向けた。ゆくゆくはあおってやろうか、などと物騒なことを思って喉を鳴らせば、盛大なため息だけが返された。

 日が本格的に傾き始め、空に赤色が差し込み始めた辺りで腰を上げた。また明日、と声をかけておけば、ああ、と実に短い返事だけが返された。
 縁側の方へ出て、ふらふらと食堂方面へと歩く。今日の当番はどの刀だったか、と考えた辺りで、いやはや人の在りようになれるのも早いものだと苦笑した。
「孫六兼元」
「ん? ああ、あんた、確か」
「白山吉光。吉光のきたえた、つるぎです」
「俺が顕現したときにいた刀、いや剣か。名乗りはしてなかったよな。孫六兼元、関の孫六が打った刀だ」
「はい。あるじさまのお気に入り、ですね」
 その言葉に一瞬面食らって、そうかね、と言葉を濁す。白山は首をかしげてから、あるじさまはどうでしたか、と聞いた。肩に乗った狐が、じい、とこちらを眺めている。
「心拍数の上昇、呼吸数の異常。いずれも、大きく感情が動かなければ、おきないものです。それが、良いことか悪いことかに、関わらず……」
 それで言えば主人が近侍にした刀は皆気に入りの刀と言うことになるが、と口にしかけて、そっと閉じた。冷静に考えてみれば、当代の主が近侍に拝命した刀はたった二振りだけだ。
 白山吉光と、孫六兼元。関係もほぼ無いと言って差し支えない上に、在り方もほぼ対極といっていい刀剣だ。
 孫六兼元が顕れてから、そう日を置かずに特命調査を完了し、一文字宗則が本丸所属となった。間を置いて、泛塵が、京極正宗が顕現したが、近侍は変わらず孫六兼元のままだ。
「あるじさまは」
 冷えた風が吹いている。カレンダー通りの気候を好む主が設定している景趣は冬のものだ。
「貴方を招いてから、よく、笑うようになりました」
 だからお気に入りなのだと思った、と白山吉光は口にする。
 その言葉に他意は無い。孫六は、そうか、と相づちを打つ。
 孫六の知る主は、この本丸の二代目の主だ。初代の主は大侵寇の後、徐々に調子を崩してみまかられたそうだ。そのあと、一、二年ほど間を置いて、当代の主がやってきた。
 孫六が顕現したのは、その矢先だったそうだ。白山の知る、孫六兼元が顕現する前の主人の姿を、当然のことながら孫六は知らない。そうだったのか、と頷く以外に出来ることは無かった。
「本当に主人の『お気に入り』かどうかはともかく、仮にそうだとしたら、光栄な話だね」
「ええ、あるじさまを、あるじさまとして見ることができるかたなは、少ないですから」
「……へえ、話には聞いていたが、そこまで?」
「ええ」
 淡い空色の目が伏せられる。あるじさまとわたくしは、さほど深く縁を結ぶことは敵いませんでしたが、と口を開いて最初の剣は言の葉を結んだ。
「同じ容姿に、同じ声。記憶に違わぬ采配とくれば、重ねるな、という方が、きっとむずかしいのでしょう」
 白山は懐かしむような、あるいは――哀れむような声で言った。
「あわなかったのです」
 孫六の様子に気がついたらしく、ほんの少しだけ表情を動かして白山は言った。気を遣うように、白毛の狐が鼻先を白山の顔へ向けた。それをそうっと撫でてやりながら、白山は柔らかな声音で続ける。
「先代のあるじさまは、おわり、を望む方でした」
「当代は違う、と?」
「貴方も気がついているのではないですか、孫六兼元。無数の枝葉を束ねて立つ、かたなのつくも。当代のあるじさまが、何故、貴方を降ろして、涙を流したのか」
 言葉に責めるような色は無い。ただ、なんとなく目を背けていたことを改めて突きつけられてしまったようで、少しだけきまずく感じた。
 先代と当代は、その根っこを除いてほぼ同一らしい。当代もそれには当然気がついていて、知っている。当たり前に分かっていた。そんなものは覚悟の上だった。その上で、きしみを上げていた心が「先代を知らぬ刀のつくも」の顕現で限界を迎えただけ。
 容姿も、才も、記憶でさえも同じ。違うのは生まれた時代と、歩いた年月だけ。
 重ねるな、という方が難しい。なるほどそれは当然だ。
「――は、お笑いぐさだな。人に紡がれた物語を頼って在る俺たちが、人に刀の紡いだ物語を求めるか」
 白山吉光は何も返さない。返すつもりも無いのだろう。ただいつもの無表情に戻って、狐を撫でている。その表情の乏しさは、どこか当代の主に似ているな、とだけ思った。
 皮肉を吐き出してから、何も言わずに佇む剣になんとなくばつが悪くなる。これではただの子供のかんしゃくだ。
「八つ当たりだな、これは。すまん」
 はあ、と息を吐く。
 先代と当代。刀の物語と、人の物語。かように複雑で、面倒で、楽しみがいのあるものもそう在るまい。渦中に立たされるのであればなおのこと。
 けれど、それを楽しむ、と割り切れるほど達観出来ないのも理解は出来た。出来てしまう。
 一つの物語を得て、確かにあったものを依り代に立つ男士と、孫六のような存在はどうあがいても埋められない溝があった。
 主とて、同じことだろう。
「いいえ」
 否定の言葉が落とされる。
「……わたくしは、これで。次の出陣が同じであれば、よろしくお願いします」
「ああ。同じだったら、よろしく、な」
 何かを言いかけて、口を閉ざして、そうして付け加えられたのは別れの言葉だ。ならば詮索してやる必要も無い。詮索できるほど親しくも無い。
 ただ、言ってみれば、そう。
「義理と人情と……選べない感傷、感佩。いや、それよりは――」
 口に仕掛けた言葉を飲み込んだ。それは口にするにはあまりに残酷で、もしも彼の主人に聞かれてしまえば、ずっと気にして引き摺ってしまうかもしれない。
 いや、存外あのしたたかさを秘めた目をする主人であれば、そうでも無いのかもしれないが、憶測だ。孫六はまだ主人をそこまで信用できていない。
 厄介なこった。
 僅かな茜色を残して藍色に染まりゆく作り物の空を眺めて、今度こそ大きなため息をついた。