花の季節は遥か遠く

一 冬の図書館

 びゅうびゅうと冷たい風が吹きすさんでいる。窓の外から見える季節は酷く殺風景で、室内にしては重たすぎるコートを着込んだ青年はその緑色の目を僅かに細めた。同じく寄った眉が彼が不機嫌であることが分かる。
 帝國図書館二階の廊下、中野重治は憂鬱そうにため息をついた。鼻からずれた位置にかかっている緑の縁の眼鏡が更にずり落ちて、慌てて眼鏡を元の位置に戻す。
「――中野先生、どうされましたか」
 こつり、と革靴が床をたたく音が廊下に響いた。男性の声はやや高めではあったが、非常に淡泊な音を持って中野に声をかける。
 黒い髪にハイライトの小さな暗い青の目。長く伸びた髪は後ろでひとまとめにされているが、左右の触角含めてくるくると自由に跳ねている。
「別に、寒い季節だなって思ってただけだよ。関東は風が強いから、数字よりも寒く感じるよね」
「そうですね。いっそ風の穏やかな雪の日の方が暖かく感じる、なんて話も聞きます。真偽は分かりませんが……実際のところはどうなんでしょう」
「確かに、下手な雪の日の方が暖かいかもしれないね。もっとも、僕はここに来てから外に出たことが無いから比べようが無いけれど」
 棘を含んだ言葉を受けてなお、男は表情一つ変えずに、そうですか、と短く応じた。
 男の名を中野は知らない。ほぼ同時期に帝國図書館へと来た徳田秋声もまた、男の名を知らないままだと言っていた。
 帝國図書館に赴任したアルケミスト。その役職は特務司書。無論、通常の司書と仕事は全く異なる。
「図書館にはなれましたか」
 司書はそう言って、手に持った端末のボタンを押した。僅かに衣服が明るくなる。司書が手に持って操作する端末は、中野が生きた時代には存在し得なかったものだ。
「まったく。だいたい、転生だの、侵蝕だの、なかなか荒唐無稽な話だよね」
 そう吐き捨てるが、中野は半ば本能的にそれらの話が真実だと感じている。それがなおのこと腹立たしい。
 帝國図書館の特務司書は文学の侵蝕現象に対応するために使わされた学者だ。
 時期は不明であるが、ある時から文学の侵蝕と呼ばれる現象が観測されるようになった。それは過去様々な人間によって綴られた文字を『無かったこと』にする現象である。
 文学は文化の重要なパーツの一つであると同時に、歴史のパーツの一つでもある。それが無かったことになると言うことは、様々なところでほころびが出るのは必至であろう。
 このまま放置すればこの現在が跡形も無くなってしまう――そんな危機感から発足されたのがこの図書館。過去に生きた文士をその綴った文学を中核に再構成し、『転生』という形で現世に再度顕現する。そうして、文学そのものを侵すモノたちを倒してもらう。
 目の前の男は、『転生』したばかりの中野にそんなことを語った。
「それは……分かりますが」
「分かるんだ」
「私が中野先生の立場なら、こんな話、きっと信じないでしょうから」
 そう、と中野は頷く。無表情のままであるが、どことなく迷惑そうな空気をにじませていた。それが別に中野に向けられているわけでもなさそうなのが、なんとなく不思議に思った。
 司書は暗い青の目で中野を見ると、一つ頷いて口を開く。
「ひとまずは、図書館内を散策していただいて問題ありません。本格的な活動は、せめて一会派が組めるようになってからを考えています」
 そう、と頷いた。司書は頷いて、質が確保できないなら量で補うべきでしょう、と当たり前のことを述べるような声で言った。失礼だなとは思ったが、あの奇妙とも形容できる文学世界での戦闘に徳田も中野も慣れていない以上、司書の言うことはもっともであった。
 びゅうびゅうと強い風が枯れ木の枝を揺らしている。あまりの強風に窓ががたがたと音を立てていた。
 風が強いな、となんとなく思って、ふと司書のもった板状のそれに目が向いた。
 おそらく司書が特務司書としての仕事をするために使用している電子端末だろう。少なくとも中野の生きた時代にはここまで薄い上に感覚的に操作できる電子機械はそう存在しなかった。
「司書さんの持っているそれ、僕らも使わせてもらうことってできるのかな」
 中野は単純な好奇心からそう口にした。司書は不思議そうな顔をして、構いませんが、と自身の持っている端末を中野に差し出そうと中途半端に端末を持つ。
 それから、画面ロックやらこの後の仕事やらのことに思い至ったらしい、司書は眉を寄せて、小さくうなる。
「……少し時間をもらえますか。個人に支給という形で調整します」
「いいのかい?言い出しておいて何だけれど、てっきり僕たちは僕たちで共用のものになると思っていたのだけれど。司書さんのそれは仕事に使うだろう?」
 個人に支給、と言い出した司書に驚いて口にした。司書が自分の端末を咄嗟に差しだそうとしたことも驚きだが、転生文豪一人一人に支給しようというのも驚きだ。それなりに費用も手間もかかるだろうし、何より目立った利点が思いつかない。
 強いて言えば館内に散らばる文士と連絡をつけやすくなることが挙げられるだろうが、管理者側から見て、こういった類いの端末は別に支給する利点はあまりないだろう。そもそも転生可能な文士と呼ばれる人種は、呼ばれて素直に来てくれるかどうか怪しいものも少なくない。
 何より、生前に馴染みの無いものだ。別に今回のようにたまたま興味を持たなければほしいと言い出すものもいないだろう。
 憎々しい話ではあるが、情報統制的な意味でも、中野たち転生文豪にこういった端末を与える理由は無い。
「こういう類いの端末は、共用は避けたほうが無難でしょう。見られたくないものを見ることもあるでしょうし、色々と管理の仕方もありますし」
 司書はそんなことを言って、何か端末に入力している。今は大人数の端末を管理するシステムも発達していますので、と付け足した。彼の表情は変わらずだ。暗い青の目が液晶画面を反射して僅かに明るみを帯びている。
「……個室と禁則事項については先に案内したとおりです」
 一通り端末入力を終えたらしい、司書が顔を上げて言った。僅かな間があったのは切り出し方に迷ったからだろう。
「うん、それに関しては問題ないよ。思うところが無いわけでは無いけれど、納得はしているからね」
 司書から説明された禁則事項はいたってシンプルなものだ。
 一つ、現代社会における違法行為、すなわち犯罪行為はなるべくしないこと。この『なるべく』というのは、かつて薬物を使用していた文士を考慮仕手のことだろう。二つ、創作活動の後悔の禁止。これは仕方あるまい。死んだ人間が新たな作品を世に送り出せば混乱は必至だ。誰であろうと例外はないだろう。三つ、図書館外への外出の禁止。ただし許可を出す場合もあると司書は補足していた。この禁則事項の理由は結局明言はされなかったが、何か口ごもるように目をそらしていたことだけははっきりと覚えている。
 もっとも。
 思うことがある、というだけで中野はこの権に関して詰めるつもりはあまりなかった。
 ゆらゆらと揺れた青い目が、どこか迷子の幼子のような光を映していた。はくはくと動いた唇は探した言葉をなくしてしまったかのような頼りなさがあった。その末に、謝るわけでも言い訳するわけでもなく、ただ淡々と伝達事項のみを伝えたその男の態度に、ある種の誠実さを感じたのだ。
 納得したわけではないが、現時点では十分だろう、と考えている。
 司書は安堵したように硬い無表情を柔らかくして、ご理解感謝しますと事務的な言葉を吐いた。相変わらずの無表情ではあるが、声音は一つ明るくなった。
「会派の結成と端末の件は追って連絡します。徳田先生にも共有しますが、先に話していただいても構いません」
「分かったよ。ああ、念のため確認するんだけど、潜書の日程って急に……通知されてその日のうちに、って形になるのかな」
「いえ、可能であれば数日の余裕はもたせるつもりです。ただ……私ではどうしようもない場合もありますから」
 表情は変えずに、ただ声に嫌悪感だけを含ませて司書は言った。
 中野が転生したときにいた、第三者――館長と名乗る壮年の男と、しゃべる黒猫、それから黒髪と白髪の双子を思い出す。
 司書が中野たち転生文豪の直属の上司に当たるのなら、彼らはその司書の上司に該当する立場の人間だろうか。
 司書の態度と言葉を信じるのなら、基本的に司書が彼らの命を断る権限はないらしい。それはそれで随分と極端だと思わなくもないが、中野が口を出せるような話でもない。そう、と短く相づちを打つにとどめた。
 司書は頷いた中野をしばしの間見つめてから、会釈をして背中を向けた。こつこつと靴が床をたたく音が遠ざかっていく。それを見送って、中野はなんとなく首元を緩めるようにコートの隙間に指を入れて空間を広げた。どうにも暑苦しく感じたのだ。
 外は変わらず風が強い。時折がたりと揺れる窓をぼんやりと見て、与えられた自室を見てやろうと中野もまたその場を立ち去った。

 ぽすりと寝台に腰を下ろした。よく干されたらしい布団はふかふかである。
 個室は広くはないが狭くもない。無駄に大きいとも思えた帝國図書館の敷地面積は転生文豪の居住スペースの確保のために広くとったのかもしれない、と思った。かつて言葉で自己を表現し、あるいは戦っていたモノたちを同じ場所に住まわせるのだ。ある程度の心理的な安全域は必要だと判断されたのだろう。
 中野は与えられた個室の内装を観察するようにぐるりと一通り見渡して、それから分からないなと首をかしげた。
 簡素な木製の机と椅子。机の上に置かれた黒い洋墨ボトルと万年筆。机の隣にはキャスターの取り付けられたキャビネットがある。大きめな窓と、そのすぐ隣に置かれたクローゼット、それから中野の座る寝台。布団はしっかり干されている上に、それなりにいいものであるらしい。ふかふかとしすぎて逆に寝づらそうだ。
 ちぐはぐである。
 明らかに中野や徳田に向けた説明は不足しているのに、司書の態度やこの個室を見るに、転生文豪をそれなりに丁重に扱おうという意思がちらほらと垣間見える。いきなり生き返らせて「お前たちの作品のために戦え」と脅しじみたことをいいながら、その直属の上司は中野たちに最大限配慮をしようと試みている。
 もちろん、ないがしろにされるよりは遙かにましな話なのだから文句はない。いや、館長やネコ、アカとアオについてはそれなりに言いたいことはあるが、今すぐに議論しに行くほどの話でもない。第一、こういった話はある程度状況になれてから行うべきだろう。
 なんとなく落ち着かず、寝台から腰を上げて個室のドアノブに手をかけた。図書館の敷地は広い。少し散歩をすれば疲れて眠気もやってくることだろう。窓の外は既に暗くなっていた。
「あれ、司書さん……?」
 何気なく目を向けた窓の外に、暗闇に紛れるように立つ男の後ろ姿が目に入った。腰より下まで伸びた黒髪はそれなりに目立つ。図書館の窓明かりでかすかに明るさを保っていた夜間の庭に立っていれば、なんとか判別はつけることはできた。
 しかし、なぜこんな夜更けに外にいるのか。中野は眉を寄せて、しかしすぐに首を振った。
 疑うのは結構だが、何もかもを疑うのは非常によろしくない。
 それに、と中野は昼の光景を思い出す。
 暗い意識の底から引きずり出される感覚と、次いで目に入った景色の中。酷くいたそうな顔をした、痩せた男が気にかかって仕方がなかった。淡泊な調子のネコ、迷惑そうな徳田、転生成功を喜ぶ館長、研究者らしくややずれた発言をするアカとアオ。その中で、ただじっと痛みに耐えるように口を閉ざしていた男だけが異端だった。
 あの姿は、どちらかと言えば――そんな、意味のない思考が脳裏を滑り落ちていく。
 ゆらゆらと男の背中が遠ざかっていく。あ、と口を開いて、中野は大きくため息をついた。
 見てしまったものは仕方がない。気になって眠れなくなるのも目に見えているし、司書の様子も気がかりだ。
 中野は顔を上げると、図書館玄関口まで早足に向かった。

 司書は図書館の中庭に突っ立っていた。庭にはベンチがいくつか置いてあり、季節の花が楽しめるようになっている。生憎と冬の今は殺風景であるが。
「司書さん、こんな時間に何をしているの」
 声をかければ、司書は暗い青い目を中野に向けて、何か言おうと口をもごもごと動かした。声は聞き取れず、聞き取ろうと一歩前に出る。司書は少し青い顔をして中野から目をそらして、首元に手を添えた。
 あ、あー、と発声練習のような声が遅れて小さく落ちる。かすれ声から徐々に普通の声に映っていき、はっきりとあーと発声しきると、やっと中野に目を向けた。
「……寒いかと思って」
「それは寒いだろうね。昼は風が強かったし、今もそれなりに風はあるし」
 図書館は館内暖房が効いているおかげで暖かいが、屋根も窓もない庭ではそうも行かない。容赦なく吹く風が否応なしに身体を冷やす。元々暖かなコートをまとっている中野はともかく、ワイシャツにベスト、その上に青色の上着という薄着な司書はさぞ寒いことだろう。
 そもそも咄嗟に声を出すために発声の準備をするほどに身体を冷やしているのはどうかと思う。国家に所属するアルケミストにして特務司書という人間は、そう簡単に代替が用意できるものなのだろうか。
「そうですね」
 息を多く混ぜた、小さな声がぽつりと耳にしみた。
「風邪、とか。引けるものなのかな、と」
 司書の指先は血の気を失って白くなっている。ゆらゆらと風に吹かれて揺れる髪の束がどうにも頼りなく思えて、中野はついぞ何も言えなかった。
 風邪とかひけるかな、なんて、普通なら言わないような言葉を吐いたその声に。
 途方もないほどの羨望が込められているように聞こえてしまった。
「……独り言です。ただの。気にしないでください。確かにすごく寒いので、もう戻ります。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
 司書はベンチから立ち上がると、中野に小さく会釈をして立ち去った。足取りは確かで、ふらっついているといった感じではない。きちんと自分の足で戻り、床につくことだろう。
「――風邪」
 病にかかることで心配されたいとか、風邪を引いて仕事を休みたいとか、そういった類いの願いではないことをくみ取るのは容易だ。
 しかし、だからといってその言葉の真意をくみ取ることは不可能だ。少なくとも中野はそこまで司書のことを知らないのだから。
 びゅうびゅうと耳元で鳴る風が一段と強くなる。流石の中野のコートを貫通する冬の風の冷たさに顔をしかめて、僕も戻ろう、と口の中で言葉を転がして踵を返す。
 人一人居ない庭のベンチが、なんだかとても寂しそうに見えた。

 男が初めて目を覚ましたとき、視界に入ったのは化け物じみた笑顔を浮かべる醜悪な人間の姿だった。
 真っ白な白衣が目に痛い。ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる声が耳障りだ。低い音から高い音までまぜこぜに響く最悪のアンサンブルに顔を思わずしかめて、男はついうつむいた。耳を塞いでもどうにもならない音はともかく、せめて視界から目に痛い白は消してしまいたかった。
 下を向いて目に入ったのは肌色だった。男は首をかしげて、一つ遅れて自分が衣服をまとっていないことに気がついた。
 それにしてもおかしいではないか。男の性別は無論男性である。それにしては下半身についているべき生殖器がない。ついでに、理由は分からないが女性器のそれもないらしいことは確信できた。足に目を滑らせて、それ以外に異常がないことを確認する。次に上半身と目を動かして、そこで初めて自分が異常であると認識できた。
 胸の中央にはまる複雑な色彩を放つ青い石。ゴツゴツとした質感は人の肌のそれではない。紛れもなく鉱石のそれ。
 右手を動かして胸元中央の鉱石を触る。つるりとした触感は、やはり人肌のそれではなかった。男はたらりと垂れた黒い髪が視界に入ったことを認識して、自分はこんなに髪が長かっただろうか、と首をかしげる。
 胸元の石といい、長い髪といい、なぜか全裸であることといい、よく状況が飲み込めない。だというのに思考は嫌な冷静さを保ったままなのが気持ちが悪い。
「ああ、ああ、成功だ!お前の名前を教えてくれ給え」
 耳障りな声が自分に向けられて、ようやく男は顔を上げた。気味の悪い嫌な笑顔を浮かべた白衣の人間たちの視線が向けられている。いやだな、と男は眉を寄せた。
「どうした?名前、名前はあるだろう?」
 名前。個を表す識別名。
 この人間に指示されて思い出すのも癪ではあったが、名前を名乗らないのも不便な話だともって、仕方なく記憶の底からその音を拾い出そうとする。
 ごぽり、と音を立てて記憶の蓋が開いた。
「な、まえ……」
 違う。
「わたし、は」
 違う。この声は自分のものではない。
 この手は自分のものではない。
 この長い髪は自分のものではない。
 ただ病に伏せり身体の弱かった自分は、こんな健康的な肉など持っていない。
 ぼこぼこと水底から湧き上がる泡のように、無数の記憶と記録が思い浮かんでは消えていく。しかしその記憶のいずれもがどこか他人事で、それでもこの身体が『己ではない』ということだけは認識できてしまった。
 続きを促すような音を聞いて、男はゆっくりと顔を上げた。
「名前、など。そんな大それたものは死人にはございません」
 はっきりと告げたその先に、喚起のっひょうじょうを浮かべた人の群れが居る。
 ああ、何とも気持ちが悪い。人はここまで醜悪な顔を作れるものだといっそ感心すらして――

 そこで、司書はその回想が夢だと悟った。
 けたたましい目覚まし時計をたたいて音を止める。ゆっくりと身体を起こして、異常がないことを確認した。肩にきしみはない。足にきしみはない。声だけは、かすれ声から徐々に人の声に近づけていく。最後に、あー、とはっきりと発音して、やっと息を吐いた。ぱらりとこぼれた黒い髪が忌々しくて仕方がなかった。
 寝間着を脱いで、ワイシャツとベストに着替える。机の上に投げ出された一冊の単行本を腰の金具に固定して、長い長い髪を後ろで一つのまとめた。最後に青い上着を肩にかけて、それが落ちないようにストラップで固定した。ややこしい衣装だ、と呆れて、それを律儀に着ている自分も自分か、と息を吐く。
 この衣服を与えたのは帝國図書館の館長と名乗る、壮年の男であった。国家に所属するアルケミストにしては珍しい、情を重んじる男だ。
 入院着のような衣服のままやってきた男を哀れんだのか、あるいはその背後にいる人間に怒りを感じたのか、それは司書の知らない話であるが、館長が特務司書になるという男にその衣服一式を与えたのは事実だ。
 実際、身一つで他に何も持っていなかった司書には有り難い施しではあった。もらいっぱなしと言うのも嫌だから、そのうち給金で返してやろうとはもくろんでいる。
 身支度を終えて、ドアノブに手をかけた。ほぼ同時に、木製の戸をたたく、硬い音がした。少し驚いて、そのまま手首をひねる。カチャリと音がして、扉はあっさりと開いた。
「中野、先生?」
「おはよう。その様子だと、風邪は引けなかったみたいだね」
 柔らかな声音で中野が言う。緑色の目は優しい色を浮かべたまま、笑みの形に添うように細められていた。
「昨夜の話は、ただの」
「ただの?」
「……ただの、妄言です。気に、留めないでいただけると、助かります」
 やっとの思いで口にした言葉は泣けるほどに小さな声だった。
 中野は柔和な笑顔を浮かべたまま、司書をじっと見据えていた。心の奥底を見透かすかのような緑の目に居心地が悪くなって、つい目をそらしてしまう。
 司書はこの中野重治という文士の転生体がとても苦手に感じていた。柔和な顔立ちの、一見すると優しげな青年は、しかしその背景に重いものを抱えている。ただの人間では押しつぶされてしまいそうなほどのそれを抱えて、国家の犬と言って差し支えないこの特務司書である男の下にいることを容認している。
 じとりと背中に嫌な汗をかいた。それ以上の言葉を探すことができなくて、司書はただうつむくことしかできない。それも自己嫌悪を増長させた。
「なら、そういうことにしておこうか」
 声音だけは柔らかなまま、そんな言葉が降りかかる。顔を上げれば、やはりあの射貫くような緑の目があった。柔らかい笑顔とどうにも合わなくて、違和感さえ抱かせる。
「今は、ね」
 両手が硬く握られていたことを知覚して、ゆっくりと手を開く。手汗でぬれた手のひらに外気が当たってひやりとした。
「暴かれたくないものを無理に暴くほど理不尽になったつもりもないし。ほら、僕も色々あったのは君も知っているんだろう?」
「それは」
「なら、『おあいこさま』だ。僕も司書さんのそれに言及はしないよ」
 だからお前もこちらに深く踏み込むな、と言われているのだと司書は理解した。柔和な顔は笑顔を象ったまま、特務司書を見据えている。
 ずきずきと痛み始めた頭を抱えてしまいたいのをこらえて、絞り出すように返事をした。発声練習もむなしく、かすれきった声が無様に落ちる。
 それを体調不良と捉えたらしく、ナカノの声は途端に心配の色を帯びて、やっぱり風邪をひいたのではないか、と司書を部屋に戻そうとした。
「ほんとうに……本当に、風邪なんて引いていませんから」
「無理をする人に限ってそういうことを言うんだよね」
「いえ、本当に」
 司書は力強く頭を振った。なりかけの頭痛ごと吹き飛ばすように、中野の心配を否定する。
「私は存外丈夫ですから」
 そんなよくある言い訳めいたことを口にした。
 実際問題、司書は風邪というものを知らない。そもそも風邪をひいたことがない。
 もっと言ってしまえば。
 司書にとって、『病』と呼ばれるものは知らないものなのだ。
 心因性の頭痛や腹痛、倦怠感を覚えることは多々あれど、純粋な体調不良はなったことがない。
 それも当然の話なのだ。
「どうか、『特務司書』など気にしないでいただければ、幸いです」
 当たり前のことながら。
 人造であれ、『機械』は風邪などひかないだろう。

 司書はやっとの思いで執務室までたどり着くと、それなりにいい値段のするらしい椅子に深く腰をかけた。
 寝起きの尋問は勘弁してほしい、と八つ当たりに近い言葉を書類にぶつけてペンを走らせる。その中に紛れていた観察書に顔をしかめると、わざと乱雑な字で必要事項を埋めた。
「荒れているニャ」
 猫らしい軽やかな動きで机の上に乗った黒い獣は、見かねたように口にした。しゃべる猫に、司書はさして動じることもなく、不愉快ですので、と短く返す。
「いえ、八つ当たりですね。失礼しました」
「……いや、こちらがお前にどうこう言えた話ではニャい。どこまでも我々が加害者であることに代わりはニャいのだから」
「そうでしょうか。私は少なくとも違うと思っていますが、そう思うのであればそうなのでしょうね」
 その罪悪感は司書には理解し得ないものだし、口を出す権利もないものであると考えていた。
 司書から見れば、確かにネコ含め帝國図書館に所属するものは皆司書をかつて害したモノたちと同じ場所に所属していることになる。とはいえ、ある意味で最前線である帝國図書館に勤務する彼らと、後方でなんだかよく分からない研究に打ち込む連中とはまた別物だろう。
 そういう意味で、司書はネコや館長に対して特に負の感情は抱いていなかった。むしろ、好意的な印象すら抱いている。
「ただ、一つだけ言うことがあるとすれば」
 蛇足だろう、と思いながら口を開く。昨日から今朝にかけてのつっかえつっかえな話し方はすっかりなりを潜めていた。
 特務司書として赴任したこの男に名前はない。『特務司書』としての役割を持って生まれた、人造のなにかだ。生まれた場所は母親の胎の中ではない。そこまで男は知らないが、おそらく試験管かフラスコか、はたまた理解の範疇を超えた機械の中か。いずれにせよ、まっとうな場所で生まれてはいない。そもそも、本来であれば生を受けてはいけないものだ。
 暗い青い目が黒猫に向けられる。ネコはゆらりと尻尾を揺らして男の言葉を待っていた。
「厄介者でない『俺』を、同僚として当然に受け入れてくれたことは嬉しかったんですよ。皮肉なことに、あの人間どもは私にきちんと昔の記憶も付随させたようですから」
「……嫌な話をさせた」
「何度も言いますが、単なる事実です。私は特に何も感じていません。ああ、あの人間どもだけは、別ですが」
 ネコは何も言わなかった。司書もまた口を閉ざして書類に向き合う。事務的なそれに目を通して、必要事項を頭にたたき込んではサインをしていった。何でも物事を始めるときが一番忙しいものだ。かつかつと万年筆が紙をたたく硬い音がする。下敷き代わりに引いていた紙の束が薄くなっていたことに気がついて、司書はいったん万年筆を置いた。
 両手を頭の上で組んで、思い切りのびをする。ごきごきとなった肩に顔をしかめて、どうせ作るなら健康体で作ればいいものを、と内心で悪態をついた。
 作られた人間、という意味では転生文豪と司書は限りなく近いところにいるのだろう。事実、司書を生み出した技術は転生文豪を成立させる技術から転用された部分も多いらしい。噂程度の話のため、真偽のほどは定かではない。
 こんこん、と控えめなノック音に返事をする。ついで、かちゃりとドアノブが回った。
「あ、仕事中なら後にするけど」
「いえ、ほぼ雑用じみたそれです。地味に納期が近いのが腹立たしいですが、至急というわけではないので」
「そうなんだ。なら少しだけいいかい」
 ええ、と頷く。黒い短髪に不機嫌そうにさえ見える硬い表情。
 ネコが有魂書に潜り、この図書館で一番最初にやってきた転生文豪――徳田秋声が、小さくため息をつきながら執務室に入る。
 彼が何か悩むように硬い表情をしているのはいつものことのため、司書も特に何も言わない。何か用か、と本来であれば司書が聞くべきことをなぜかネコが聞いた。
「大した用じゃないよ。中野から、昨日君が夜遅くに外にいたって話を聞いたから、様子を見に来ただけ。その様子だと、本当に体調は問題ないみたいだね」
「ほう、そうニャのか、司書?」
「……ええ」
 司書はなんとなくネコと徳田から視線を外した。そろりとそらしたその行為が、なぜか悪いことをした気分にさせて嫌だった。
 ネコは不機嫌そうに尻尾を揺らすと、ちらりと伺うように徳田の方へ視線を向ける。徳田はといえば、大きくため息をついて右手で頭を抑えていた。
「意外と悠長なんだね。突然呼び出されたから、急を要するものだとばかり思ってたよ。一時的とはいえ、鏡花も呼んだくらいだったし」
 徳田の言葉にはかすかに棘がある。もっともだな、と思いながら、仕方ありません、と司書は淡泊に口にした。
「何せ私が赴任した直後に大改修が通知されましたので」
「司書の夜間外出については後で詰めるとして……そういうことだ。先日、正確には司書が赴任した翌日に通知が出た」
「急すぎない、それ」
 同意しかできない。司書はしょっぱい表情を浮かべて、力なく首を横に振った。所詮は末端の現場の人間、上からの通知にはなすすべもない。正直司書もどうかとは思っていた。
 とはいえ、図った部分もあるのだろう。様々な時間と場所、世界線で成立している帝國図書館は、既に強固な戦線を築き上げ、有碍書が増えることを抑えることに成功しているところもあるという。
 それであれば、そのうちの一つくらいは実験台にしても構わないと政府は判断したのだろう。現場としては迷惑極まりない話である。
「私の抗議など無意味ですし、無意味なことをするよりはこうして雑務をしている方がまだましですので」
「……まったく、君の上は中々いい性格をしているよね」
「ノーコメントでお願いします」
「暗に同意しているだけだニャ」
 やかましいという視線をネコに送れば、黒猫はするりと視線を交わすように机から降りた。徳田はネコに一瞬視線を向けてから、再度司書に目を向ける。それから大きくため息をつくと、それなら仕方がない、と小さく呟いた。
 眉間のしわは深い。ただでさえ苦労性気味な彼に要らぬ気苦労をさせてしまったか、と司書もまた内心で嘆息した。発足早々トラブルとは実に就いていない。人為的なものなのがまた質の悪さを増長させている。
「一応中野にも伝えておこうかと思うけど、いいよね?」
 徳田の当たり前の言葉に一瞬息をのんで、ええ、と短く返す。
 不意に昨夜の出来事が思い出されてしまったのだ。あれは単なる独り言の類いで、気にしないでほしいと確かに言った。だが、それを「はいそうですか」と頷くような人間は何人居るだろうか。
「司書」
 ネコの無機質な声で我に返った。慌てて顔を上げれば、不審そうな徳田と目が合う。
「どうせ雑事しかやることがないのなら、休める内に休むのも手なんじゃないのかな」
 不審そうな顔ではなく心配している顔なのかもしれない。いや、前者だろうな、と司書はその考えを即座に頭から追い出した。中野はどうやら徳田に昨日のことを話しているわけではなさそうだった。ともなれば、単に口ごもり下を向く特務司書を不審に思ったに違いあるまい。
「ふむ、徳田の言うことにも一理ある。その仕事はすぐに片付ける必要のあるものでもニャい」
「ネコ……」
「お前に倒れられて困るのは我々もだ。少しは自覚してもらわねば困る」
 正論である。司書はぐっと押し黙ると、諦めたようにペンを置いて書類を机の端に追いやった。
「その様子だと、顔、真っ青なの自覚がなかったんだね」
「言われるほど体調不良ではないのですが」
「自覚がないだけなんじゃない。君だけならともかく、最悪こっちだって被害を受ける可能性があるってこと、分かってる?」
「……ええ、それもそうです。失念していました。申し訳ありません」
 頭痛を抑えるようにこめかみに手を押し当てる。自分のことばかりで肝心の所が見えていない。他人に指摘されてから気がつくなど最悪だ、と司書は自分に失望したように長いため息をついた。
 徳田は眉間に刻んだしわを僅かに浅くして、せっかくなんだし休んだら、と続けた。ネコも賛同していることだし、確かに休んだところで誰もとがめないだろう。
 しかし、と駄々をこねる自我に顔をしかめる。何とも幼稚な話で、ここまで言われてなお司書は自分のわがままを通したいと騒ぎ立てる心を抑えきれずにいた。
 子供でもあるまいし、と椅子から腰を上げる。物理的に仕事ができない場所にいれば気にもならないだろうと、ペンも置いて机から離れた。
「眠くもないですし、司書らしく読書に励むことにします」
「それ、『司書』って職業に対する酷い偏見じゃない」
「そうかもしれません。何せ私はまっとうな『司書』をついぞ――」
 そこまで口走ってから、不自然に口を閉ざした。いぶかしげな視線を向けた徳田から目をそらして、いえ、と言い訳めいた言葉を落とす。
 ついぞ。
 ついぞ知らぬままだった。
 はくりと空気を呑む。息苦しさに更に顔色が悪くなっただろうな、と内心で笑いながら、弱々しく頭を横に振った。
「やっぱり、休みます」
 逃げるように口にして、ふらふらと執務室から退散した。ちょっと、と背後から投げられた言葉を振り切るように早足で進む。
 息苦しい。寒々しい。頭が痛くて仕方がなくて、頭が熱を持って不愉快で、ただ外の空気を吸いたいと、ぐらつく思考のままに廊下を歩いた。


 中野は唖然とする徳田を見かけて、はてと首をかしげることとなった。ネコはゆるりと不機嫌そうに尻尾を揺らして、司書を回収してくると言って執務室から出て行った。その場には心底訳が分からないといった表情の徳田と、ついさっききたばかりで状況が一つも分からない中野が二人居るだけである。
 中野は説明を求めるように徳田に目を向けた。徳田はただでさえ常時刻まれている眉間のしわを更に深くして、僕が知りたいよ、と嘆くように口にした。
「司書さんの様子を見に来たら、真っ青な顔で仕事してるからさ。休んだらって勧めたらああなんだ。まったく意味が分からない」
「それは……そうですね」
 確かに意味が分からない。とりあえず司書の顔色が優れないことと、休めと勧めたら様子がおかしくなったらしいという推測しかできなかった。
 とはいえ、司書の様子ははじめからおかしい。中野は気がかりだね、と口にして、外套の襟元を広げるように引っ張った。外気が流れ込んでひやりとする。
 ――風邪、とか。引けるものなのかな、と。
 不意に、冷たい空気の中落ちた言葉がよみがえった。
 今思えば、その言葉はまるで、はじめから自分は風邪なんて引けないけれど試してみたかったかのような、そんなおかしさを内包していた。風邪なんて引くことができないと分かっていながら、こんな寒い日に薄着で長くじっとしていれば風邪を引けるのだろうかと試すような、無意味な逃避行為のよう。
「ネコ、司書さんの行きそうな場所に心当たりはあるかい?」
「おそらく中庭だろう。館内には居ないんじゃないか」
 ネコではない、壮年の男性の声が代わりに答えた。帝國図書館の館長その人が、悩ましげな顔をして腕を組んでいた。
「昔から――そう、昔から、彼は外への執着心が強い。何かあったときこそ外へと足を向ける可能性は低くないと思う」
「あんたは司書さんと知古なんだ」
「いや、別にそういうわけでもない。司書と顔を合わせたのはこの図書館に彼が赴任してからだ」
 徳田は、ふうん、と納得いっていない様子で相づちを打った。顔を合わせたのは赴任してからね、と嫌みっぽく落としてからため息をついていた。「もちろん、知ってはいた。司書はある意味では有名だったからな」
「へえ、どういう意味かな」
 館長は苦笑を浮かべて頭を横に振った。言えない、ということらしい。
 隠し事の多いことだね、と皮肉を吐いて、中野は踵を返す。こつこつと遅れて響く音から察するに、徳田も執務室を離れたのだろう。
(ちぐはぐだ)
 とても、とてもちぐはぐで気持ちが悪い。中野は眉間にしわを寄せて、盛大に息を吐く。帝國図書館に転生して二日目、顔色の悪い司書に各仕事の多い政府関係者と、決して気分はよくなかった。
 とはいえ、正直に言えば直属の上司に当たる司書の印象はさほど悪くはない。悪くはない、と言うよりは心配であるといった方がより正確だろうか。第一印象からして不安しかない男であったが、昨晩の様子からして相当に精神は不安定らしかった。
 それが一人でふらふらと出て行ってしまった、というのがより不安を煽る。流石に自死こそ市内であろうが、精神耗弱を紛らわすために何かおかしなことをしてもおかしくはない。
 探すか、と中野は無言でエントランスへ向かう。館長やネコの言葉を頼りにするのはなんとなく癪だったが、それ以外に頼るものがないのも事実だった。
「はあ。僕は念のため館内を見て回るよ。見つかったら……どうしようか」
「ああ、連絡手段もありませんからね。そうだな、今から二時間後にエントランスホールで確認、でどうでしょう」
「それが良さそうかな。まったく、司書さんといい館長といいネコといい、色々と不安しかないよ」
 そう文句を言う徳田に中野は苦笑いを返すしかできなかった。