明日は明日の雲が浮かぶ2

 もぞもぞと着替えている小柄な人影を見やって、仁武は今更ながら顔に集積する熱に顔を手で覆っていた。今更過ぎる。先ほどまで元気に笑い転げていられたのは何故だろう。その場の勢いのせいだろうか。
 だが確かに想っていることは事実だった。いつだって五十日の間は「戦いの最中だから」と蓋をして、見ない振りをして、そうしていつもいつも手遅れになった後に気がつくのだ。
 気がついた後も、いつだって仁武の先は長くなかったから、すぐ会えるな、と暢気なことを考えていたものだ。
「そういえば、不躾でなければ聞いておきたいんですけれど」
 シャツに袖を通しながら怜が口を開いた。ぼんやりとした印象が、服を着るときに乱れてしまった髪のせいで強調されている。
「仁武はどの記憶があるんですか?」
「……ストレートに聞くな」
「訂正します、いつ死にました?」
「もっとストレートにしてどうする」
 そしてやや棘を感じる物言いに、お前も人のことは言えないだろうと文句を飲み込んだ。今は、そこが主軸ではないはずだ。主軸ではないが後できっちり言っておく必要はあるだろう。
 全体的に志献官は互いの寿命に対して手厳しかった。無理もない話ではある。
「聞かれて困る、って訳でもないんだが」
 仁武は十六夜の言葉を思い出しながら静かに口を開いた。怜はそわそわと落ち着かなさそうにゆらゆら動いて、それからテーブルの上に鎮座するからっぽのコップへ目を落としていた。プラスチック製のそれに移る輪郭はぼやけて不鮮明だ。
「互いに詮索は無し、という暗黙の了解がある。どの結末が、誰にどんな影響を与えたのか……知るも知らないも、明かすも明かさないも当人の自由にするべきだ、というわけだ」
 だから、無理に聞くことも、あえて話題を振ることも避けるべきだ。そういう暗黙の了解ができあがっていた。
 特に、と仁武はつい苦虫をかみつぶした顔をしてしまう。十六夜と仁武で記憶のすりあわせを試みたときの、一つの記憶が問題だったのだ。
 深く結びついた者が死んだ記憶と生き残った記憶。あまりに残酷で明瞭な記憶の齟齬だった。
「――最後までの記憶は、あるんですね」
「最後?……ああ、ミラーズ九慈との一件か」
「はい。横浜の」
 怜が頷いて、同時に、この子もか、と仁武の胸中に冷ややかなものが流れていく。
 繰り返した記憶。概ねの流れこそ同じだったが、途中から明らかに違う未来を辿る、複数の記憶を抱いている。
 この子も例外ではないのだ、と思うとどうにも心が重たかった。その一方で、同じだ、と喜んでいる自分がいるのが心底憎たらしい。
「あそこで全滅した記憶しか無いって言われたら、申し訳がないな、と」
「何が、申し訳ない、だ。記憶も何もないのに、我々と共に戦ってくれた事実だけで――」
「じゃあ」
 射貫くような目に言葉を失った。
「あそこで倒れた記憶だけで、現在を笑って歩けますか」
 強い強い目だった。そういうまなざしを見たことがあって、仁武はゆるく首を振る。無念で終えた過去を抱えて歩けるほど強くはない。
 弱い人間なのだ、と自覚している。だから強くなってくださいと叱咤された。知っていたし、覚えている。
「だが、申し訳ないと思う必要が無いのも事実だ」
 勝手に戦いを強いたのは仁武だ。時代がそれを望んだのかもしれなかったし、ゆくゆくは上からそういう命令が下ってもおかしくはなかったが、あの日、あの場所で、そう頼んだのは紛れもなく鐵仁武その人だった。
 だから、その失敗の記憶の責だって仁武にある。仁武はそう疑わない。
「……頑固者」
「そっくりそのままお返ししよう」
 むすっとした幼い表情に破顔した。何ともかわいらしいやりとりではないか。子供のようなじゃれ合いに笑みを浮かべれば、怜もまた瞬きをして首をかしげていた。
 着替え終わって、バラバラになったタグを集めている。それからポケットに手を入れてから、あ、と声が漏れた。
「携帯か?」
「はい。そういえばこの間壊したままだったなって」
「……壊したのか」
「雨漏り直下に置いてたらしくて……」
 日常的に雨漏りする場所に住んでいたのか。
 仁武は怜の生活レベルを想像したくなくて、そっと現実逃避するように口を開いた。
「怜、取り急ぎここに住め」
「えっ?いや、それは」
「俺を胃痛で倒れさせたいか?……ッ、参ったな、腹の傷が……」
 ひゅっ、と息をのむ音に仁武はちょっとやり過ぎたかなと思って、それからそのまま演技を続行した。自分も自分だとは思うが、怜も怜だ。ここまでしなければ首を縦には振らないだろう。
「きゅ、救急車……電話、電話どこですか、仁武」
「単に痛むだけだ。もっと酷いと声も出ないんだが、今日はまだ、マシな方だ」
 実際は痛んでないが、嘘でもない。鉄骨により引き裂かれた腹の傷は未だに痛むし、場合によっては痛みと引きつる感覚で声すら出ずに蹲っているしか無いときだってある。そこまで酷い状態になるのは稀ではあったが、無いわけではない。
「なら、せめて何か痛み止め……」
 落ち着かないといったように腰を浮かして、そして怜の言葉が不自然に止まった。顔を上げれば、何とも不満そうな顔が自分を見下ろしている。
 流石に大根の演技はばれたらしい。はは、と笑ってやれば、怜は心底腹立たしいと言ったように勢いよくそっぽを向いた。
「だが、痛むときは実際動けないからな。誰かいてくれると、正直言って助かる」
「そうなんですか?というか、何で今もそんな」
「ただの事故だ。後遺症もない。単に古傷が痛むってだけの話なんだ」
 脇腹に手を当てれば、死ぬほど疑うような目を向けられる。解せない、と眉を寄せれば、心底呆れた目が向けられた。正直その目を向けられるべきは怜だと思ったが、これに関しては本当にどっちもどっちである。この場に十六夜がいたら、抱腹絶倒した後真顔で双方に苦言を呈することだろう。
 それで、と咳払いをしながら話を無理矢理元に戻す。互いに譲らないし互いに手厳しさも変わらないのならば、この手の話題は堂々巡りになるだけだった。
「返事は?……もちろん、嫌だというのならば無理強いはしない。代わりに別の物件が押しつけられるだろうがな」
「こわ……」
「……それは是非とも十六夜に言ってくれ」
 清硫不動産、と栄都が思わず呟いていたのを思い出してしょっぱい顔をしてしまう。実際は不動産業は手を出していないと言っていたが、あの人はその人脈を持ってしれっといい物件を押さえて玖苑や一那に提供していた。実際見ていたのだから間違いない。
 怜は少しの間悩むように眉を寄せて、それから短く返事を返す。
 はい、と。
 聞き覚えがあるな、と苦笑する。どこまでもどこまでも『ふるい』記憶に引き摺られているのだと思った。それが良いことなのか悪いことなのかは今はまだ分からない。
 けれど、少なくとも今は悪くないのだと思えていた。それで十分だった。
「なら、決まりだな。適当な時間になったら荷物を取りに行こう。車は、俺が出す」
「はい。ありがとうございま……荷物は後の方が良いのでは?」
 クソ狭い室内を見渡しながら言う怜に苦い笑みを浮かべた。
「十六夜を頼る。あの人のことだ、もうとっくに用意しているんじゃないか」
「何を?部屋を?」
「家だ。多分、というか十中八九戸建てだろうな」
「戸建て」
 オウム返しする怜の顔は困惑を色濃く浮かべていた。仁武が怜の立場でも同じ顔をしていた自信がある。
 確信を持って言えるのは、いつぞやに十六夜が仁武に引っ越しを勧めたときの発言のおかげだった。
「じゃ、あの家は抑えとくか」
 家、と聞き返せば、十六夜はにやりと笑みを浮かべて言う。やっぱ男は戸建てだろ、と絶妙に古い価値観を口にしていたのを思い出す。
 いつぞやに玖苑が引っ越したときに、十六夜ってばまだ例の話の家抑えているみたいだよ、などといってきたものだからたまらない。仁武は全力でその発言を聞かなかったことにしたが、ここに来て頼ることになるとは誰も思うまい。
「取り急ぎ怜の荷物をここに運び込んだら、トラックを借りて引っ越しだな」
「そのトラックは誰が運転するんですか?」
「俺だが」
「大特持ってるんですか」
「前の仕事のおかげでな。それと大特って、俺は別にブルドーザーやらフォークリフトやらを公道で乗り回しているわけじゃないんだが……」
 そうなんですか、と怜が首をかしげている。まあ、知らないのも無理はないだろう。普通は大型免許すら取らないのだ。
「大きさによるが、トラックは普通免許でも乗れる」
 いつ免許を取得したかにもよるが、と付け加えれば、へえ、と面白がるような声を聞いた。
「なら自分も運転できますか。ペーパーですけど」
「絶ッ対にやめろ」
 免許は持っているんだなと思いながら、絶えきれずに笑みをこぼす。酷く間抜けなやりとりに、おかしくなって腹が引きつりそうなほどに笑ってしまった。