明日は明日の雲が浮かぶ1

 鐘の音と共にがたがたと騒がしい音を聞いた。床と椅子の脚がこすれる音だ。起立礼、なんて挨拶がないその学校は、鐘の音で教師が終わりと言えば休み時間を迎える。
 時刻は昼時。窓から差し込む日の光は徐々に夏の顔を見せ始めていた。
 空腹を激しく訴える胃に小さく息を吐いて、鞄から財布を取り出してポケットに突っ込む。そのまま小走りで教室を出て、食堂へと向かった。狭くないとはいえ、昼の食堂は混むのだ。なるべく早くに並んでしまいたかった。
「げっ」
「うげ」
 そうしてやっと食堂にたどり着いて食券を買えば、並んだ列には見知った顔が既に並んでいる。思わず出た声に、周囲の人間はまたかと言わんばかりの苦笑を浮かべていた。
 朔と三宙は同じ高校に通っている。朔は兄である碧壱と同じ、公立の伝統校へと入学した。対して、三宙は両親の勧める私立の名門校への入学を全力で断り切って朔と同じ高校へ入学している。どちらの高校も有名で、かつ評判の良い高校だった。ついでに地理的にも近い位置にあった。
 とはいえ『昔』から犬猿の仲の二人である。顔を合わせれば元気に喧嘩、顔を合わせなくても話題を振れば皮肉と罵倒が飛び交うほどの水と油も良いところの関係性に、周囲は早くも慣れきってしまっていた。
 なお、朔の兄である碧壱はその有様にちょっと頭を抱えているが、知らぬは当人達だけである。
 口も聞かずに並んで、食券を食堂の調理員に渡し、できあがった料理を受け取って席に着く。
「……おい、ここに座るな。他のところへ行け」
「はー?他に席がねえからここに座ってるのが見えないわけ?思考だけじゃなくて視界も狭くなっちゃった?」
「なんだとこの軽薄野郎」
「るっせえな、黙って食えよ石頭」
 今回は朔が喧嘩をふっかけたな、と周囲の学生は黙々と食事を口に運んでいる。
 マジでどうかと思う。公共の場で堂々と喧嘩をするな。子供か。
 その手の忠告は周囲から散々受けてはいるのだが、うけたところで結局目線で喧嘩をし出すしであった瞬間メンチを切るのでもうどうにもならない。良家の坊ちゃんとは一体。
 ふん、と互いにそっぽを向いて食べ始めたあたりで周囲の空気が弛緩した。どんなに犬猿の仲といえど、結局は育ちの良い子供なのだ。食べている間は割と静かだったし、殴り合いになるとかそういうわけではないと知っているだけでそれなりに周囲の気は楽ではあった。
 もっと言ってしまえば、周辺に住んでいる人間であれば誰もが知っているような良家の子息という触れ込みでやってきた二人だったから、このような、ある種『普通』の側面を頻繁に見せているのは悪いことばかりではなかった。身構えていた人間は、なんだ同じ学生なのか、と納得したし、偏見にまみれた人間もまた、普通の子供なのだと目の当たりにする。
 ぴこん、と電子音が鳴った。朔が眉をひそめて、三宙が箸を置いてポケットに手を突っ込んだ。おい、と朔の小言が飛び出しかけたが、それは三宙の呟きで遮られる。
「あれ、碧壱サンだ。めっずらし」
「……兄さんから?」
「まあ、今は見ねーけど。自由時間以外に連絡してくるのって珍しいな」
「そうだな。兄はいつも気を遣ってくれているから……気にしなくていい、とは言っているんだが」
 そのためのメッセージアプリだ。即時でなくともやりとりが可能であるのが利点であるというのに、碧壱は妙な気を回して、いつも放課後の自由時間にしか連絡をしてこない。
 朔は三宙の言葉に同意を示して、残りの料理を口に運ぶ。それなりの味の料理を胃に収めきって、席を立つ。
「……」
 朔と三宙は前後で並んでいたし、頼んだものだって同じだったし、何なら食べ始めたタイミングだって同じだったから、席を立つのも同じタイミングになるのも無理はない。
 無理はないのだが、なんとなく気に食わない。数秒の間にらみ合って、それから互いにそっぽを向いて別々の方向へ立ち去っていく。
 相変わらず仲が悪いなあ、という噂話を耳にして、双方軽く舌打ちを鳴らしていた。

 放課後は放課後でやることがある。風紀委員である朔は委員会活動に顔を出してからの自由時間だった。
 今日は何をしようか、授業で進んだところの復習でも――そんなことを考えている内に、ばたばたと騒がしい足音に眉間にしわを寄せた。
 こんな騒がしい足音は聞き違えるはずもない。
「おい朔!碧壱サンの連絡見たか!?」
「うるさいぞ三宙!廊下は走るな!」
「だーっ、細かいことは良いだろ別に!そんなことより、早くスマホ見ろって」
 一つも細かくはない、と朔は悪態をつきながらポケットに手を入れる。四角い板状のそれを出して、電源を入れた。いちいち電源切ってんだ、と呆れた声に更に眉間のしわが深くなる。
「お前な、校則が何のためにあると」
「はいはいお決まりお決まり。つかんなことはマジでどうでも良いの。早く碧壱サンのメッセージ見ろって」
「言われずとも確認する」
 トン、と画面に指を押し当ててロックを解除する。通知欄には見知ったアイコンが並んでいた。その中からメッセージアプリのアイコンを探して、指がピタリと止まる。
 にやにやとする三宙の顔が心底腹立たしい。それと同時に、どうしようもないほどの大きな感情が胸中に渦巻いた。
「見ただろ?」
「……ああ」
 揶揄うような顔をしながら、しかし口角は緩みきっている。三宙は自分のスマホのメッセージアプリを開いて、俺もマジで驚いたわー、と口調だけは軽薄さを保って言った。
「夏期休暇が近いことをこんなに喜ぶ日が来るとはな」
「クールぶってんじゃねーよ、朔。本当はめちゃくちゃ嬉しいくせに」
「は?そういうお前はどうなんだ」
「俺はさっき教室で騒いでから来ましたけどー」
「それは威張れることじゃないだろ」
「再会できてうれしーってことくらい、素直に喜んだってバチ当たんねーだろ。隠すだけソンだっての」
 ――『仁武からやっと許可が下りたから伝えておくよ』
 そんな意味の分からなさすぎる文句から始まったメッセージの続きを辿る。
『怜が見つかったって。一足先に会ったけれど、朔たちに会うのを随分楽しみにしていたよ』
 簡素で、それでいて喜びに満ち満ちた文章だった。
 たくさんの記憶を辿ってきた。その末に、いつも心を砕いて、身を砕いて、誰かのために走り続けた誰かがいた。忘れるはずもない、たった五十日間だけ一緒にいた仲間だ。
 他の志献官の仲間の縁をたぐることができても、ただ一人かけてしまってはどうにもむなしさが埋まらない。その穴が、今、ようやく埋まろうとしているのだと思った。
「っていうか、仁武サンから許可が下りたって何?」
「お前が知らなくて何で俺が知っているんだ……兄さんに聞いてみた方が早いだろう」
 三宙が不思議そうに画面とにらめっこしながら言うものだから、朔もつられて呆れた声が出た。そのまま流れるように送信欄に文字を打ち込んで碧壱に尋ねれば、碧壱がよこした答えは実に単純だった。
 曰く、風邪を引いていたから。なるほど確かに体調が回復しないうちにそこかしこから連絡が来ても迷惑なだけだろう。
「台風……あったけどさあ。勢力もそこそこ強かったけど、にしたって屋根が吹き飛ぶのはないっしょ。どんだけぼろ屋だったわけ、怜サンの下宿先……」
「知るか。いや、知らないが本当にどれだけ古い家屋だったんだ?そもそも建築法的に問題ないのか、それ」
「流石に建築法は知らないけど、まあなんかこう、すり抜けてたんじゃね。グレーゾーンってやつ」
「たまたま近くに鐵さんが居たから良いものの、いなかったら最悪……」
 言葉を切る。三宙もその言葉について何か言及するつもりは無いらしかった。
 最悪、どうなっていただろうか。もしかしたら、また会える前に――そこまで言葉が出かかって、朔は口を結んだ。
「起こらなかったことに言及しても、時間の無駄か」
 そんな不愉快なたらればの話は必要ない。朔の独り言じみた呟きを拾って、三宙はにやりと笑みを浮かべた。
 変わらないものが在るのならば、変わったものだって当然在った。それが良いことか悪いことかはさておくとして、三宙は少なくとも悪くは無いと思っている。
「石頭にしては柔軟じゃん」
「は?今のどこに喧嘩を売る要素があるんだ。普通に『よかった』と言えないのかこのひねくれ者め」
「罵倒の言葉のバリエーションだけ増やしてんじゃねーよ」
「ハッ!俺はお前と違って日々成長しているんだ」
「そこ、張り合うところじゃないよね絶対。はあーやだやだ、これだから石頭の頑固の擬人化は」
 六月の中旬、梅雨入りが発表されて間もない日ではあったが、空は目に痛いほどに深い青が塗りたくられていた。