肥え太った心の末9

 コンビニを出て、帰路を急ぐ。やや早足気味になったのは、つい碧壱と話し込んでしまったからだ。
 周囲はとっぷりと暗くなっている。分厚い雲に覆われて星も月も見えやしない。代わりに、人工照明だけがそこかしこから漏れ出ている。
 仁武の家からコンビニまではそう距離はなく、ゆっくり歩いて五分ちょっとくらいの場所にある。元々歩く速度の速い仁武が早足で歩けば、五分も経たないうちに家の前に着いた。
 家の戸に手をかけてから、違和感に手を止めた。
 鍵だ、と一拍遅れてそれに気がつく。人を招けば大抵自分は家にいたし、誰かが家にいる状態で外出することなど数えるほどしかなかったことに気がついた。
 冷静に考えてみれば、いつかの時でさえ寮生活で部屋で誰かが待っていることなど無かったのだ。特に、仁武や玖苑は混を経ずに純の位を得ていたから、防衛本部に来たときには既に個室があった。
「……ただいま」
 むずがゆさに目を細めて発音する。寝台に座りっぱなしの人影が動く気配がして、それから応じる声に口角を上げた。
「おかえりなさい」
 弾んでいたのはどちらの声か。どちらでも構わないだろう、とビニール袋を机に置いた。

 できあがった弁当のガラをビニール袋に突っ込みながら、結構な量を食べたな、と困惑混じりの目を向ける。やはり遠慮の字の欠片すらない。そう言えば十六夜が媒人が防衛本部に来た初日に牛丼をおごったとかなんとか言っていたな、と思い出す。良い食いっぷりだった、と十六夜は満足げだったが、見知らぬ男性からおごられた牛丼にがっつくのはどうなのだろう。食欲不振よりは良いのかも知れないが、と今更ながらに首をかしげてしまう。
 怜が肩からずり落ちたシャツを持ち上げる。そこで、今更ながらに十六夜がわざわざ持ってきてくれた衣服を放置していたことに気がついた。
 何とも気が抜けている。仁武は盛大に息を吐いて、それから置きっぱなしのビニール袋二手を突っ込んだ。近所のスーパーの特大サイズのビニール袋だが、中に入っている服はどう見てもそのスーパーで買えるものではない。
 気にするとか言ったって、事後なら文句も言えないだろ、などと言ってへらへら笑っている姿が目に浮かぶ。
「怜、それだと色々煩わしいだろう。こっちに着替えておけ」
 ビニール袋ごと手渡せば、きゅ、と怜の眉間にしわが寄った。買ったんですか、と平坦だが困惑のにじんだ声に苦笑した。
「十六夜のお節介だ。受け取っておくのも、礼儀だぞ」
「牛丼ならまだしも……」
 ぽつりと落とされたそれについ笑みを浮かべれば、当人もまた小さく口角を上げていた。確信犯らしい。牛丼牛丼と口にしていた自覚はあるようだった。
「そういう感傷は、悪くないかなと」
 ビニール袋から服を取り出して、タグを確認している。一瞬怪訝そうな顔をして、十六夜さんめ、と怜が寝台から降りてため息をついた。
「値段だけきれいに切り取られていたもので」
「ああ、そういうところは抜かりがないんだよな」
 苦笑しながらはさみを渡してやれば、怜はありがとうございますと律儀に返して受け取った。ぱちん、とプラスチック線を切る音と、しょり、という糸を切る音を聞いた。バラバラになったタグはテーブルの上にまとめられている。
「着替え……は、ここでいいですか」
 シャツを脱ごうと片腕を引っ込めたタイミングで、ためらいがちな声がかけられる。糸がつかめずに、もちろん、と頷いた。
「ああ、かまわ――」
 鷹揚にうなずきかけてから、はた、ととまる。このタイミングで自分に着替えの許可を取ると言うことは、つまり。
 防衛本部所属の志献官はすべからく男性であった。そもそも、志献官となれる人間がどういうわけか男性しかいなかったから、当然と言えば当然である。
 要は、男所帯の中でずっと過ごしてきたものだから完全にそういう可能性を失念していたことに、たった今気がついたのだ。
 人間、慣れない状況に加えて非常事態になると冷静な思考を失うものである。
 仁武は思い至った可能性を吟味する余裕すら放り捨てて、慌てて立ち上がった。
「……っすまない! 俺はいったん席を外して」
「いえ自分は男性なので問題は無いんですけど」
「そ、そうか。なら構わない」
 怜はちょっと笑っている。それはそうだ、突然慌てて、それも多分顔も紅潮させて立ち上がれば、どういう理由で焦ったかなど検討がつかない方がおかしい。
 笑うな、とも言えない。これは完全に仁武の早とちりが良くなかった。正直今すぐ一人になって思考を整理したい。
 おもしろ、と声が聞こえた気がしたが気のせいだろう。たとえ視界の端っこでツボって丸まっている怜がいたとしても、間違いなく気のせいだ。気のせいであってほしい、と願望混じりの思考回路に仁武はついに顔をそっと明後日の方向へ背けることにした。
 何とも格好がつかない。昔は、もっと『ふるい』いつかは、こんな風ではなかったはずだが、と無機質な壁と向き合いながら顔を手で覆った。
「ふ、ふふふ、真面目。ふはっ」
「不真面目よりは、マシだろう……」
「そう、ですね」
 完全に声が震えている。何もそこまで笑う必要は無いだろうと幾分か冷静さを取り戻した脳が抗議の声を上げたが、まあいいか、と流している自分がいることに気がついた。
 くしゃりともらった服を抱えたまま、文字通り腹を抱えて笑っている姿は「新鮮」の一言に尽きた。長くはないが短くも无次官を過ごしたはずだったが、ついぞそういう姿は見なかったのだと今更ながらに気づかされる。
 きっとそうやって無邪気に笑っていられるような時間が無かったからだろう。意味の無い話で、ひたすら時間を浪費するようなことをしてる暇が無かったから、彼の人のただの人らしい側面を見ることがなかったのだ。
 ひいひい笑い転げている中で、胸中が僅かに冷たくなった。全くもって学習しない。
 こういう時ぐらい難しいことなんて考えるのはよせ――ふと、再会したときの玖苑の言葉を思い出した。
 確かにそうだろう。
 けれど、それが出来ていればきっと鐵仁武はここまで歩けていなかった。そういう人間だから、血反吐を吐きながら、この暢気な現在にたどり着いた。
「……怜?」
 笑い声は収まっていたが、怜はそれでも肩をふるわせていた。なんとか笑いをこらえているのか、別の理由か。まあ十中八九前者だろう。口元が笑みの形にゆがんで震えている。
 ああ、と彼の人の口が開いた。一瞬でも身構えたのは弱さ故か。
 ともあれ、飛び出た言葉はさっぱり予期していなかった言葉だった。予想していろ、というのも土台無理な話ではある。
「ふ、ふふ。そういう仁武が好きです」
 ぴたり、と仁武の動きが止まった。一瞬止まったが、そういえば近くにその手の表現を多用するヤツがいたな、と思考回路を再起動しようする。が、たたみかけるように怜が言葉を重ねた。
「自分をおしえてくれた日から、きっと好きだったんだと思います」
 ゆるりと細められた目は幸福の色をにじませていた。
 おしえた? 何を? いつから?
 ――そんなものは決まっている、と笑っている誰かがいた。ずっと浮かれていたのも、どうにも気が緩んでいたのもそのせいに違いない。
 耳に染みついた、波の音。輪郭さえぼやけるような日の光と、うるさいくらいにきらめいていた海面に、迷子のような顔をして突っ立っていた。
 いつも。何度も。 ……いつだって。
 そうして、彼の人が塵と消えた後にいつだって自覚した心が在った。苦しいからと、意味が無いからと蓋をした心が悲鳴にも似た声を上げて泣いている。
「……そうか。お前は知らないだろうが、あの五十日の後、俺もそう想っていた。っはは、面はゆいな、こういうのは」
「そうですね。その節は自分のせいではないので是非とも言及しないでいただけると」
「なら、俺の錆の件についても言及は無しだ」
「やっぱいいです」
「そこまでか……?」
 ふは、と吹き出した声に破顔した。先ほどまで爆笑していたくせに、また服を抱えて転がって笑っている。子供のようだ、と眉尻を下げた。
 肥え太った心の末、たどり着いたものがここであるというのなら。
 ああ、実に――実に、悪くはない。
 いつかで地獄を歩いたのだ。今世くらいは現世に寄り道したって良いだろう。
 なにせ、今は、現在は、いくらだって時間があるのだから。