肥え太った心の末8

 ずっ、ずる、とすする音で口を離す。あっさりと中身はなくなってしまった。どうあがいてもゼリー飲料一つでは足りそうにない腹の調子に、怜は少しだけ息を吐いた。
「足りてないな」
「そう……ですね」
 迷いながら肯定する。この手の話は下手に否定するよりは素直に頷いていた方が良さそうだ、と判断した。
 仁武は少し考え込むように腕を組んで、買いに行くか、と小さく落とした。
「近くにコンビニがあったはずだから、買いに行ってこよう。牛丼でも買ってくれば良いか?」
「……牛丼の下りは忘れてください。自分も行きます」
「駄目だ。病み上がりなんだから下手に動くな。熱がぶり返したらどうする」
 仁武がかけた言葉は純然たる心配の色を帯びたもので、ついでに熱がぶり返したら、のあたりは一つも言い返せはしなかった。
 一晩経っていれば言い返しもしたのだが、昨日の今日、それも日も昇らない深夜ともなれば言い返すのもおかしな話だ。
「分かりました」
 ただそれでもなんとなく気に食わなくて、せめて嫌ですと伝えるように渋々受諾の言葉を吐いた。おかしく思えたのか、あるいはまた別の何かを思ったのか、仁武は小さく笑っている。すぐ戻る、といつかではあまり聞かなかった柔らかな声に顔を上げた。
 パーカーを羽織って家主が戸を閉める。狭い部屋ではあったが、酷く広く感じられてならなかった。家主の図体が大きすぎるせいだろう、と寝台に乗せた足を下ろす。
 部屋の中に視線を巡らせれば、おおよそどんな毎日を送っているのかが想像できた。趣味は相変わらずらしい、と一カ所にまとめられた筋トレ用の器具を見て笑みを浮かべる。
 ……あと何度繰り返せば良い、と問うた。
 数えられないほどの時間を渡ったように思える。何故自分なのだろう、と初めのうちは疑問にさえ思った。
 寝台から腰を浮かす。ごくごく普通のワンルームの賃貸だ。一人暮らし用の小さめの家電が設置されている。
 でも、それでも、何とも不思議なことに繰り返すことにさほど嫌悪感はなかった。あったのは、ただ救えなかった結末への後悔と、あるいは未練と、それから――繰り返すほどに増した、執着にも似たどろりとした感情か。
 雛の刷り込みだ、と自嘲的な笑みを浮かべて室内を歩き回る。自分でさえ狭く感じるのだから、仁武はなおさらだろうな、と小さな歩幅で歩いて行く。
 救世のための計画に志願したことなんて一つだって覚えていなかった。
 だから、いつだって――いつも。
 結月怜に価値を与えたのは鐵仁武という個人だった。
「執着のままなら、よかったんだけど」
 落とした言葉は重たくて、けれど何ともくすぐったい。
 執着と呼ぶには純粋で、愛と呼ぶには軽すぎて、恋と呼ぶには変質しすぎてしまった。
 生活の跡をなぞって、同じ場所へ戻る。ぽすり、と座って家主の帰りを大人しく待った。
 抱えた言葉も感情も熟れたまま、されど果実ではないのだから腐り落ちることもない。
「まだかなあ……」
 朝焼けまでは、まだ少しだけ遠かった。

 コンビニでぽいぽいと弁当をかごに突っ込んでいる大男を見て碧壱は思いきり二度見した。顔が若干緩んでいるので言うほど怖くはない。怖くはないが、その人物を知っているが故に違和感がつきまとう。
「じ、仁武? 風邪でも引いたのかい?」
「碧壱?珍しいな、こんな夜中に」
 それはこちらの台詞である。碧壱はその言葉をぐっと飲み込むと、そうだね、と同意した。源碧壱は大人なので、仁武の多少ずれた部分には目をつむることにしていた。
「仕事が軽く燃えてしまってね。絶賛尻拭い中ってところだよ。腹いせに甘いものを買おうと思って」
「それは……大変だったな。お疲れさま」
「ははは、ありがとう。それで、そういう仁武は?コンビニ飯なんて珍しいじゃないか」
 気になって、仁武の持つ買い物かごの中身をのぞき込む。見られることは特に何とも思っていないらしく、ああ、と頷いて見やすいようにかごを碧壱の前へ持ってきてくれた。
 中にあるのはサラダと弁当が数個、それからゼリー飲料が数個に解熱剤だった。
「仁武、風邪を侮ってはいけないよ。病院へ行こう」
「引いたのは俺じゃないんだがな。第一、風邪を引いてたらこんな夜中にコンビニなんて来るか」
「……それもそうか。あれ、なら誰が?一人暮らしって言ってなかったか」
 碧壱と仁武は昔から知り合いで、仁武が一人暮らしをしているのも知っていた。ちょこちょこ遊びに行っては狭いね、と苦言を呈するのはいつもの話である。
 仁武も意地を張っていないで清硫さんに物件紹介してもらえば良いのに。碧壱は常々そう思っているが、十六夜が無理強いをしないのも、仁武が中々頷かないのもそれなりの理由があるからなのだろう、とあえて深くは踏み込んでいなかった。
 いつの間にか同居人が増えたのだろうか。舎利弗さんとかかな、と思ったが玖苑は別に居宅があったはずだ。かといって他に仁武が同居しそうな人物が思い当たらない。まさかの大穴で一那だろうか。あのクソ狭い部屋に二人暮らしは流石にないな、と碧壱はそっと首を振った。
 分からないなら聞けば良い、と顔を上げれば、少し眉間にしわが寄った親友の顔が目に入った。その理由が不可解で、どうかしたのか、と問う。
 仁武は濁すような言葉を選んでから、それからするりと店内に目を向けた。夜中のコンビニに人気は無い。いかにも眠そうな店員と、客である碧壱と仁武ぐらいしか居なかった。
「……今、朔は寮だったか」
「え? ああ、そうだね。夏休みなんかは帰ってくるけれど」
「ならいいか」
 朔に伝えるのが問題なのだろうか。碧壱は首をかしげて、そうかい、と頷いた。
「媒人は覚えているか。その、お前が……」
「ああ、私がミラーズだったときの話だね。もちろん覚えているよ」
 なんてことの無い風を装って碧壱は口にした。一瞬息が詰まったような気がしたのは、互いに気のせいではないのだろう。
 あの五十日間の間で――あの最後の日までの間で、誰も彼もがゆがんでゆがませられた。それは碧壱も仁武も例外ではない。
 特に、碧壱はその記憶が色濃かった。早くに脱落した罰か、戒めか。あるいはミラーズと果てた己の弱さ故か。話をする限り、碧壱の『ふるい記憶』はどうやら他の志献官よりも色濃いものであるらしいことだけが分かった。
 とはいえ、その事実に気がついているのは目の前の親友と食えない『自称おじさん』ぐらいだろう。
「もしかして、あの子が見つかったのか。なら、どうして朔に、朔たちに隠すんだ」
 声は努めて冷静だった。何故、という疑問と、何か理由があるのではないか、という好奇心から成る声はそれなりに平坦な音に仕上がった。
「雨の中一人で突っ立っていた上、元々住んでいた家の屋根が吹き飛んで現在住所不定の学生だ。これを、どうやってあいつらに紹介しろと?」
「なんて?」
「さっきまで三十八度の高熱、家は台風で屋根が吹き飛び住めず、やむなく俺の家で保護している」
「……ごめん、一つも理解できない」
「俺も我ながら意味の分からない状況だとは理解しているんだが、まあ事実だ。現実は小説よりも奇なり、というやつだな」
 そう言いながらも仁武の顔はどう見ても緩んでいる。珍しいな、とまじまじとのぞき込めば、流石に困惑の色を乗せた目が向けられた。
 碧壱の知る仁武は、真面目で堅物で、それと典型的なギャップを持ち合わせた、面白く頼りになって信頼の出来る親友だ。その親友が見せた緩みに緩んだその顔が珍しくて、それでいてあたたかな感情を乗せているともなれば、気にもなるのが人の性というヤツだろう。
「そっか。それじゃあ、その子が回復したらちゃんと、すぐに、連絡をくれよ。朔もきっと喜ぶ」
「それは当然だ。あいつも、ただの源碧壱に会えると聞けば喜ぶだろう」
「はは、それは嬉しいな。期待に添えるように取り繕っておかなければ」
「取り繕う必要があるか?」
「好感度的には最悪だろう? ほら、私はミラーズで……アレだったのだから……」
「……すまん」
 下手にフォローを入れない仁武は優しいと碧壱は思う。自分で言っておいてなんだが、ちょっとかなり傷ついてしまった。それでいて、いつかよりもずっと強く優しく育ち、加えて今でも自分を慕ってくれる朔は本当に出来た子だと思う。
「それじゃあ、また今度」
「ああ、また今度」
 かごを片手にレジへ向かう男の後ろ姿がどことなく嬉しそうに見えて、碧壱は小さく笑みを浮かべた。
「……よかったね、仁武」
 心からの祝福を直に伝えることはせずに落とす。それにしても媒人が戻ったのか、と碧壱はデザートコーナーを物色しながら先ほどの話に思いをはせる。
 それから、あ、と思わず声を上げた。
 咄嗟に店中へ視線を巡らせたが、仁武の姿はもう無かった。有能な店員め、と八つ当たりじみた感情を握りしめて、大きなため息をつく。
 私はあの子の名前知らないなあ。
 碧壱は盛大なため息をつくと、仁武から連絡が入ったついでに聞いておこう、と砂糖のかかったバームクーヘンを手に取った。