肥え太った心の末5

 意味があるようでない会話を続けていれば、もぞもぞと視界の端で何かが動いた気配がして顔を上げる。
 起きたのか、と僅かな期待が脳裏をよぎったが、別段そんなことはなかった。代わりに、暑かったらしく怜が布団を思い切り剥いでいた。
「はあ……」
「風邪っぴきだもんな」
「空調入れておきます。 ……電気代、最近痛いんですよね」
「あー、分かる分かる。世知辛い世の中だよ」
 さほど分厚くもない布団を掛けて、リモコンのボタンを押した。ぴ、という電子音と共に少し古いエアコンが冷風を吐き出し始める。
 何とも平和なことで。十六夜は自分たち以外の声しか響かない部屋をぐるりと見渡して息を吐いた。男性一人が住んでいるだけの、小さなワンルームは生活臭にあふれている。
 いつかほど金はもらえてないし、裕福な暮らしが出来るわけでも充実しているわけでもないが、それなりに幸福なのだと言っていた。
 そんな幸福が、途方もないほどに愛しいものだと知っているからこそ、十六夜もただ笑って頷くことしか出来なかったのだ。
 その幸福の一つに、この子が加われれば良い。
「それじゃ、おじさんはそろそろ退散しますかね。そういや、お前さん今日どこで寝るの?」
「その辺に寝ようかと」
「その辺」
「あの辺とか」
「床なんだよなあ。マットレスとかないの? 運動用の」
 あったかな、とクローゼットの中身を思い出すがそんなものを突っ込んだ記憶は無い。そもそも仁武が好む運動はほとんどが屋外運動と無酸素運動、すなわち筋トレで、いわゆる寝具代わりにつかえるようなマットレスはなくても支障は無かった。
 要は床で寝るしかないのである。
「冬用の布団を敷きますよ」
「あ、それいいね」
 それはいいのか。仁武はちょっと十六夜の基準が分からなかったが、突っ込むのもやぶ蛇だろうと言葉をそっと胸の内に仕舞った。
 仁武の寝る場所が分かって満足したらしい十六夜が今度こそ去って行く。また来るわ、と実に気軽な感じで去って行く背中を見送って、らしいな、と小さく笑みを浮かべた。
 十六夜がふるい記憶に必ずしも良い思いを抱いているわけではないこととて、仁武も承知している。それでも悪くないだろうと言い張るのは十六夜のためでも自分のためでもあった。
 ちなみに玖苑は全肯定派である。出会い頭にこちらの記憶の有無を確かめもせずにハグをしにきたことは今でもはっきりと思い出せた。
 それはさておき、十六夜がどこかくらい表情を見せるときがあるのは、自分を含めた誰かのせいなのだろうな、という確信だけがあった。
 主役と、脇役の記憶。比重の偏った二種類の記憶を抱いて自分たちは生きている。
 仁武の持つ、十六夜風に言えば『主役』だったときの記憶は――思い出して、玄関の鍵を閉めた。
「……じ、ん?」
「お前な、寝ていろとあれほど」
 思考はふわふわとおぼつかない声で中断された。いかにも体調不良です、といった顔の青さと、熱でふらふらとした足取りに内心で頭を抱える。
「外、雨ですよ」
「さっき十六夜を見送ってたんだ。ほら、さっさと体調不良者は寝てろ」
 そうですか、と怜はすんなり頷いて引き返す。先の少し、いやかなり強情な態度を思い返して首をかしげたが、まあそんなこともあるだろう。
 何よりこの子はまだ本調子ではないのだ。多少言動にブレがあってもおかしくはない。
 この子はどこまで覚えているのだろう。そんな疑問が頭をよぎったが、口には出せなかった。出すとしても、この子が回復してからだろう。
 凪いだように見えていた目がかすかに揺れている。あっさりと引き返したように見えた怜は寝台の前で仁武を待っているかのように突っ立っていた。
「話したいことがたくさんありました」
 ぽつり、とこぼれた音を拾う。仁武は怜の顔を見た。迷子のような、揺れた目がぼんやりと大男の姿を映している。
「起きたら、おきたら……ねむって、しまったら」
 まだ熱に浮かされているのだろう。ふわふわとした、ややろれつの回っていない声が空に解けて消えていく。
「別に俺の家なんだから、俺がいなくなるなんてことはないぞ」
「夢だったら」
「夢なら風邪なんて引かないんじゃないのか」
 引く人もいるとは思うが、という二の句は飲み込んだ。
 強い子だと思っていた。怜はぽすりと寝台に腰をかけると、眠たそうに目をこすってぷらぷらと足を遊ばせている。
「……あと、よんじゅう」
「寝ろ。別に来月も再来月も当たり前に来るんだ」
 咄嗟に言葉を遮ったのは、焦りからだったのだろう。あるいはまた別の感情からだっただろうか。とにかく、ただただ不愉快で仕方がなかった。
 後、何日だと? そんなものはもう無い。そんなものはもう必要ない。自分も、彼の人も。
「そうでした」
 安心しきったような、吐息混じりの声に酷く心臓が跳ねたような気がした。ふらふらと頭が左右に揺れていて、壁などに頭を打ち付けないうちにさっさと横にさせる。
「……あした、てすと……」
 ――テストか。そっか。それは確かに大変だ。じゃあ『あと、よんじゅう』って何だ。残りの命とかそういうクソシリアス煮詰めた数字ではなくテストまでの日数とか試験時間とかの話か。
 すうすう寝息を立てて再度眠ってしまった彼の人を目の前にして仁武はそっと顔を覆った。とりあえず一人でシリアスやっていたのが死ぬほど阿呆らしくて、一周回って笑いがこみ上げてきた。
「ああ、そうだ」
 十六夜の言葉がテーブルの上に置き去りにされている。
「今は、そんなこともないもんな」
 雨が降っている。
 柔らかな小雨が、さあさあ、と。
 飽きもせずに、ずっと降っている。
 部屋の中は暗くもなければ明るすぎるわけでもない。自然光は弱々しくて、光の輪郭を床に作ることさえ叶わなかった。