花に嵐

十六夜さんと仁武さんが散っていた仲間と、ただひとり反世界に消えていった媒人を悼む話。
大本は井伏鱒二が訳した「勧酒」です。

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
引用・参考元:https://ddnavi.com/serial/1000091/a/2/


 ぱきん、と嫌に澄んだ音を聞いた。
 バラバラに砕け散ったガラス片をなんとなく眺めて、一拍遅れておいてあった備品が割れたのだと気がついた。
 何が割れたのかは分からなかった。この部屋にガラス製の調度品はそこそこあったし、机の上に置いてあるものもそれなりの種類があった。咄嗟にどれが落ちて割れてしまったかを判断するのは難しい。
 仁武はガラス片を拾い集めようと手を伸ばして、それから息を吐いて首を振った。どうにも疲れていて駄目だ、と軽く首を回す。ごきごきと書類仕事で凝った音が鳴った。
 それからふと顔を上げる。そもそも部屋とは何だったか。そんなにもガラス製の製品を机の上に置いていただろうか。首をかしげたが、答えは出ない。
 ぼんやりと霞がかかったように思考はおぼつかない。ただ、ここが見慣れない場所であると言うことだけは理解が出来た。
 かしゃん、とガラス片がこすれる音を聞く。顔を上げれば、見慣れた人影がぽつりと立っていた。
「割れちゃった」
「きちんと片付ければ大丈夫。それより、怪我はしてない?」
「してない」
「よかった」
 とつとつとした、罪悪感にあふれた言葉に優しい言葉が落とされている。その声を知っている気がしたが、何故知っているのかは分からない。
 声の主を確認しようと顔を上げて、そこでやっと思考が明瞭になった。
「明日から自分はもういないから、しっかりしないとだめだよ」
 穏やかな声だった。姿見は似ていないから、あの小さな子供は血縁者では無いのだろう。では、何故子供二人でこんなところにいるのだろうか。
 そこまで考えてから、孤児、の二文字が脳裏に浮かんだ。
 一一三計画の概要と、媒人から聞いた百冬実の話、それから――それから?
「どこへいくの?」
 幼い子供が、媒人の顔を見上げて尋ねた。まだ年若さを残した姿の彼の人は目を瞬かせて、泣きたくなるほど穏やかで、されどどこか不安をにじませた声で答えている。
「――少し、世界を救いにね」
 ぱきん、とガラスが割れるような音を聞く。確かに彼の人は世界を救った。その末に、この幼い子供にも、自分たちにも会えない場所に行ってしまった。
 逝ってしまった、とする方が正しいだろう。ガラス管の数字を思い出す。一、という算用数字が憎たらしくて、諦めをにじませたすがすがしい笑顔が空しくて、悲しくて、されどその命の使い道には覚えがあって、頷いた。
 その選択に間違いは無かったのだと断言できる。あのまま強情に居座っても、ただ死人が増えるだけだった。
 それでも時折考えてしまう。あの選択は、本当に彼の人にとって悔いのないものだったのだろうか、と。
 息苦しさに目が覚めた。身体を起こせば、以前のような苦しさは全く感じられないことが分かる。それでもただ水中にいるかのように息だけが苦しい。心因性のものだと、わかりきった原因に息を吐く。
 ついぞ、強くはなれなかった。結局仁武は媒人という存在に救われてここにいる。命だけでは無く、これからの寿命まで救ってもらってしまったと言っても過言では無いだろう。
 すっかり消え失せた錆の跡を探すように腹を指すって、それから首を振る。どうにも思考が後ろめたくなってしまっていけなかった。
「明るいな……」
 窓から差し込む月の光に目を細めて、それから何も無い手を眺めて拳を作る。手にできたたこと、跡の残る傷を作った場所をぼんやりと眺めていた。
 そうして意味も無く、何かを考えることも無く、ただぼんやりとしていれば幾ばくか心は楽になった。ただ、眠る気にはなれなくて、仁武はのそりと寝台から降りて静かに部屋のドアを開けた。
 廊下は泣きそうなほどに静かだった。一部の志献官は既に寮を出て、それぞれの道を歩いているものもいる。寮の部屋を別の用途として使用しているものもいるが、それはそれで現状は構わないとしていた。
 終わった割に、仁武の肩にのしかかる重責は変わらない。肉体労働が減った代わりに、無意味に精神をすり減らすようなデスクワークが増えた。それも、結倭の国と志献官の未来のためと思えばさほど苦では無かったが、それでもつらいものもある。
 寮を出て、目的も無くふらふらと道を歩いた。どこを歩いているかは分かるが、どこ歩いているのか、は考えなかった。
「あれ、仁武じゃない。どうした?」
「……いえ」
 ふらりと歩いていたのは十六夜で、月明かりがくすんだ黄色の髪を濡らしている。片手には提灯が、もう片方の手は煙草がある。ふわりと揺れる煙は十六夜の周りを取り巻いて離れない。
 仁武は濁すように口を開いて、それから、はあ、と息を吐いた。ごまかせば聞かないだろう。素直に吐き出せば聞いてくれるだろう。十六夜という人は、少なくとも仁武に取ってはそういう人だった。
 防衛本部が終わったと言うことは。
 十六夜の背負うものも、また一つの区切りを迎えたということだ。
「どうにも夢見が悪かったんです。軽く歩きでもすれば眠れるかと思って」
 嘘でも無ければ本当でも無い言葉が滑り落ちた。十六夜は、そ、と軽く返事をすると、その場でじっと佇んでいる。仁武が並ぶのを待っているのだろう。ゆっくりと左足を踏み出せば、目に痛くない黄の目が柔らかい色を帯びた気がした。
「この時間だとどこの店も閉まってるねえ」
「空いてるのなんて、それこそ酒屋くらい……行きませんよ、俺は。明日も仕事があるんです」
「おじさんまだ何にも言ってないんだけどなあ」
 明らかに目が向いた先が居酒屋だったくせに何を言うのか。呆れを含んだ目を向ければ、ちえ、とわかりやすくすねたような顔をして十六夜は視線を前へと戻した。
 正確な時間を見ずに出てきてしまったが、日付はもう変わっているのだろう。草木も眠るような暗い夜の中、アルコールに逃げたのか、単に楽しい時間を延長しているのか、酒を扱う店ばかりが煌々と窓の光を漏らしている。
「夜も長くなったもんだ」
 ふと、十六夜がそんなことを口にした。提灯の明かりが窓から漏れる光に負けじと足下に影を作っている。
 なんとなく空を見上げれば、ぎりぎり満月にはならないような中途半端な月が南天を過ぎた場所に浮かんでいた。浮かぶ星はどうにもぼんやりしていて印象に残らない。
「なー、仁武。やっぱりなんか飲まねえか?お前さん、翌朝に酒残んないだろ」
「残りませんけど、俺はそんなに付き合えませんよ」
「俺だってそんなに飲むつもりはねえよ。一杯だけ、な」
 ついてこい、と十六夜が歩いて行く先は何も無い。明かりは徐々に途切れていって、最後には寝静まった家だけが鎮座している。その家すらだんだんと数を減らしていく。
 その先にあるものを知っていて、仁武はついぞ何も言わなかった。
 一杯だけ、の言葉に嘘は無い。十六夜も別に酒が飲みたくて仁武を誘ったわけでは無いのだろう。そんな心が分かるくらいには、仁武も舗装されていない道を歩いてきた。
 暗い夜道を歩いて、そう時間のかからないうちに開けた場所に出た。小さな祠と、大きくも小さくも無い一本の木。葉は既に赤い。地面には無残に落ちて、泥に汚れた赤い葉があった。
 十六夜はその祠の前に提灯を置いて、煙草の火を消した。ふわりと灰色の煙が揺らめいて消える。それを眺めながら、祠の前で飲む気なのかこの人は、と呆れ混じりの目を向けた。
「俺が作ったんだよ。ほら、適当に呑もうや」
 貴方が作ったのですか、と聞き返そうとして、やめた。仁武は差し出された紙コップを手に取って、注ぎますよ、ともう片方の手を伸ばす。困ったような、懐かしむような、そんな不格好な笑みを浮かべて、十六夜が酒瓶を仁武に手渡した。
 紙コップとは風情が無い。提灯と半端な月明かりしか無い夜は途方もないほど暗くて、しかし侵蝕領域の中よりは美しく光にあふれている。
「――この杯を受けてくれ」
 言葉が揺らめいた。提灯の中の火がゆらゆらと、眠たそうに揺れている。
 仁武はそのまま酒瓶を傾けて、とぷとぷ、という音を聞きながら口を開いた。
「どうぞなみなみ注がしておくれ……」
 十六夜が無言で手を伸ばす。今度は自分が注ぐ、と言うことだろう。仁武は酒瓶を十六夜に渡して、自分の紙コップを差し出した。とぷん、と音を立てて空のコップにアルコールが満たされていく。
 ゆらりと波立つ水面に月は映らない。代わりに、暗い夜と赤い葉だけが輪郭をゆがませて映り込んでいた。
「あいつ、確か成人してたよなあ。一杯誘っときゃ良かった」
「後の祭り、というやつでしょう。大体、あの状況下で酔い潰れるほど呑むのもどうかと思いますが」
「仁武だって酒でふらっふらになってるところ、媒人に目撃されてたじゃない」
「いや、あれは……!っ、いえ、確かにそうですね。そうですが、俺は断って」
「ははっ、悪い悪い。ついつい揶揄いたくなっちゃってさ」
 小さく笑いながら十六夜が紙コップに口をつける。仁武はなんとなくそういう気分にはならず、ただ水面に揺れる赤い葉を眺めていた。風流だねえ、という暢気な声が緩やかに流れて消えた。
 花はもうじき散る頃だ。暗い夜の中に花の色彩は見えない。見えたとしても、無残に地面に落ちたものが見えるだけだろう。
「花に嵐のたとえもあるぞ、だったか?」
 酒を飲み干しながら十六夜が上を向いて言った。空なんて見えやしない。月の一つも無い空など、真っ暗な室内と何が違うだろうか。
「さよならだけが人生だ、と続くんでしたか」
 彼の人の人生は、さぞ嵐のようなものだったことだろう――仁武はゆらゆらと揺れる夢の残滓に触れるように酒をあおる。十六夜の持ってきた酒なだけあって、決して度数は低くない。液体が喉を通って、一拍遅れてかっと熱を感じた。
「花もあったろうさ。なあ?」
 黄色の目が夜の藍に濡れている。その言葉に肯定も否定も返さずに、ただぼんやりと空になった真っ白い紙コップを眺めていた。
 さよならだけが人生だ、というのならば。
 その末に何が残るのだろう。
 たくさんの別離を経て、仁武は今ここに立っている。残るのは自分では無いと思いながら、結局残されたのは自分だった。もっとも、その葛藤すらもう思うことは無いのだろう。
 失うことはもう無いのだ。嵐はとうに過ぎ去って、散った花は土へと還り、そして次の春がやってくる。
 寒い季節が近い。葉は燃えるような赤となり、いずれは色を失って落ちていく。
「……ずるいものです」
 ああ、本当にずるい。故人はこのような葛藤も思うことは無いのだ。残していく者たちは、今頃空の上で満足げに笑っていることだろう。もしくは、残った自分たちを恨んでいるだろうか。どちらにせよ、今を生きる人間には知る術もない。
「あいつらからすれば、俺たちこそずるいのかもな」
 とぷん、と酒瓶の中の液体が揺れた。そのままくるりと上下が反転して、中のアルコールが祠の前へと落ちた。
 何の祠だっただろうか。
 きっと何の祠でも良いのだろう。
 起こってしまったことは覆らない。こうして先の寿命ごと救われてしまったのも、一つ、あの暗い世界に残してきてしまった誰かが消えていったのも、覆らない。
 どんなに嘆いても、後悔しても、死人がよみがえらないのは当たり前。その当たり前ですら、ひとたび認識すればぎりぎりと音を立てて首を締め付ける。
 アルコールが混じった汚い水たまりには赤い葉が浮かんでいる。
「明日にでも誘ってみる?紅葉狩り。玖苑なら喜んでのってくれそうじゃない?」
「ついでに、何人か引き摺ってくるかもしれないですね」
「そりゃいい。やっぱりさ、めでたいことなんだから喜ばないと」
 ――さよならだけが人生ならば。
 きっと冬の先にも春があることだろう。