死人の口に蓋をする

50日のすぐ後の話。
メンタル限界かつ媒人に負い目を感じている仁武さんと、それでも前を向くしかないよと諭す玖苑さんの話。

……あるいは、媒人の不始末とそれを巡る残された人間の話。

「死人の口は開かない、か」
「故に生者は死人を都合よく扱うしかないのさ」


 じわりと背中に冷や汗が伝う。酷い息苦しさに、やっとの思いで仁武は口を開いた。
「箝口令、ですか」
「ああ、当然だろう?君たち志献官の献身的な戦いは我々とて十分に理解している。だがね、それを歴史の表舞台に出せるかどうかはまた別問題だ」
 司令代理である君ならば分かるだろう?
 暗にそう告げられているのだと分かったとき、仁武が感じたのは憤りよりも酷い寒気だった。
 世界は確かに救われた。
 志献官も各々の道を見つけて歩き出すことが出来ている。
 いずれは賦活処置を受けた志献官もいなくなり、ただの人間だけとなるだろう。
 だから一つだって問題は無い。元より旧防衛本部がらみの話はすべて口外厳禁の厄ネタだらけであることは承知していた。それらは当時純の志献官だった彼らにも話してある。
 されど、されど。
 この電話の先にいる議員はこう言ったのだ。
「一一三計画のことはもちろん、あの……なんといったかな。触媒の志献官のことも口外は控えていただきたい」
 それは一人の人間が生きた痕跡を消すのに等しい行為だ。
 生まれてから死ぬまで、この世界のために文字通り献身的に戦い続けた彼の人を、無かったことにしろ、と?
「当然だろう?あの志献官は一一三計画の副産物なのだから。彼の存在が明るみに出れば、どこからどう一一三計画が世に出るか分かったものじゃ無い」
「だから……だから、触媒の志献官の存在を無かったことにしろ、と?馬鹿馬鹿しい。彼の人が防衛本部の志献官の中で最も献身的に戦い抜いた人間なんだぞ!?」
 耐えきれず、言葉尻は怒声となって霧散した。かすかに息が上がっている自覚がある。全く冷静ではいられなかった。
 仁武の怒鳴り声を聞いて、何を思ったか電話口の声は含み笑いすらしながら最悪な言葉を連ねていく。
 それは何よりじゃないか、と。
「最も献身的な志献官であったのなら、もちろん我々の意思に賛同してくれるだろう」
「何を馬鹿なことを」
「馬鹿なことを?馬鹿を言っているのは君だ、鐵君。何をそこまで憤っているのかは知らないが――私はね、未来の話をしているのだよ」
 自分の言葉に寄っているかのように朗々と語られる言葉が酷く忌々しい。
 何が未来だ。何が世界のためだ。
 その世界のために文字通り身を献げた人間の意思を勝手に決めつけ、無かったことにして、「彼の人ならばきっと肯定する」?
 最悪もいいところである。到底受け入れられるようなものでは無い。
 握りしめた拳が嫌な音を立てて、声を荒げるまいと強く噛んだ奥歯がギリギリと音を鳴らした。ふつふつと煮えたぎるような怒りが胃の奥で熱を持っている。
「聞いているのかね、鐵君――」
「失礼、客人が来ました。この話は後日」
 返事も聞かず、電話機をたたきつける。軽くあがった息に、嫌な音を立てている心臓に、ごろりと転がった受話器に、酷く、酷く吐き気を覚えた。
 ぐしゃりと何かをこらえるように頭をかきむしって、それから浅い息を整えるように蹲る。
(この、戦いは、最初から最後まで彼の人に頼りきりだった)
 ごぽりと胃の奥から何かがせり上がってくる感覚がある。脳の奥が揺れている。ぐらぐらと揺れているのは自分の視界なのか、それとも地面なのか判断がつかない。
 最悪だ。仁武はこれから考え得る流れをいくつか思い浮かべ、その醜悪さに口元を手で覆った。
「う、ごほっ……」
 びちゃり、と音が聞こえる。あまりの醜悪さにむせ込んでしまったらしい。僅かに臭う鉄の臭いに気がつかないふりをして、仁武は赤銅色の目に影を落とす。
 恩を返すどころか仇ばかり積もっていく。彼の人の影はどうしようも無いほどに薄く、残る遺品もある意味でありふれたものばかり。唯一彼の人のものだと一目で分かる桜色のガラス管は反世界の中だ。
 確かに世界は救われた。だがこれではただ一人が救われない。
 既に終わりかけの命なのだと言われたと聞いた。実際そうだったのだろう。彼の人の命は目覚めてから僅か五十日と定められたもので、それは変えようのない規定事項でしか無かった。あの日生百冬実でさえ、寿命は変えられなかったのだ。
「……一つも、一つも残させてやれなかった」
 あるいは、残させなかった。
「最悪だな……」
 ぐらりと世界が傾いた。胸中の深い部分に溜まりゆく、暗く濁った感情に視界が薄らいでいく。
 その中で、ふと、からん、という音を聞いた気がした。
 寸でのところで拳を強く握り地面にたたきつける。傾き書けた身体は中途半端な位置で止まり、代わりに赤い色をした吐瀉物が床にまき散らされた。
 どうあがいても血である。ぐらぐらと揺れているのは地面では無く自分の頭だ。錆化はじわじわ進んでいたが、ここに来てとうとう限界が近いらしい。
 幸い、仁武は主力ではあったが作戦の主軸では無かった。想定していたよりも錆化の進みがマシであったのは、紛うこと無く媒人のおかげだろう。
 後ろ向きになった思考を無理矢理たたき切る。今は感傷に浸っている場合では無い。自分ではどうにも出来ない権力で潰そうというのなら、別の方法をとればいい。
 ああそうだ。
 戦いというものが剣だけで無いことを、今の仁武はよく知っている。
 随分と冷静になった思考に自分でも苦笑を漏らして、やっとの思いで立ち上がる。まだ歩ける程度の苦痛に顔をしかめて、とにもかくにも医務室か、と息を吐いた。
 ぱさりと音がして、落ちた紙切れを慌てて拾う。うっかり床に落ちては己の吐瀉物で汚れてしまう恐れがあった。
「これは、媒人の――」
 遺品整理の際に紛れ込んだのだろう、彼の人の字が紙面に小さく綴られている。
 あと何日、と左上に小さく付記されている上、破れたような跡があるということは、日記帳の一部か何かだろうか。
 何気なくその紙切れに目を通して、じわじわと体温が奪われていく心地になった。
 その一文が何を指し示すのは分からなかったが、何か、何か致命的なものを見落としてここまで来てしまったのだという確信だけが眼前に横たえているような気分だ。

「――あと何度、繰り返せばいい?」

 どたどたと騒がしい足音に身体を起こす。まだ身体の芯は冷え切っているように思えた。錯覚だろう。先ほど検温した際は体温は正常だった。ただ、錆化の影響であると思われる体調不良だけが仁武を蝕んでいる。
「仁武!また倒れたって聞いたよ。いい加減に休んで――仁武?」
「なんだ、小言はいいのか」
「いや、思った以上に最悪な顔色だったからね。今までだって相当だったけど、今回のはとびきりまずいらしい。仁武、キミはいい加減に休んだ方がいい。まだすべきことが残っていると駄々をこねるのならなおさらだ」
 玖苑のいつも通りの小言、もとい正論に力ない笑みで返す。玖苑は一瞬不可解そうに眉を寄せた後、本格的に参ったのかい、と凪いだ声で続けた。
 参ったと言えば参ったのだろう。何がとは明確に言葉には出来ないが、心を支えていたものの内の一つが崩れ落ちた気分だ。とてもじゃないが、司令代理の顔を保てる気がしない。
「いや、参ったというか――なんだかな。頭では分かっていたつもりだったが、存外志献官の犠牲というのは軽いものなんだと、そう思い知らされて色々と堪えたのかもしれん」
「ああ、そういうことか。絶対他にもあるだろう」
「ない」
「ある」
「ない。しつこいぞ」
「いーや、あるね。キミが意固地になるときは大抵ろくでもない嘘をつくときだ。それもキミ自身のことに限って頑なだ」
 ぷいっ、とそっぽを向きながら玖苑は退室するつもりは無いらしかった。いつぞやの時とは違い、現在がいわゆる「平時」――文字通りの平時だからだろう。
 仁武は何かを言葉にしようと口を開いて、それから息だけが吐き出されてそのまま閉じる。
 何を言葉にするというのか。何を言おうとするのか。その行動が何を求めてのことなのか。いずれも、仁武には分からなくなってしまった。
 ただ、あの几帳面そうな字だけが脳裏にこびりついて、そのくせ今にも忘れてしまいそうで気持ちが悪い。
「これのことかい?」
「……玖苑、お前それをどこで」
「どこって、司令室だよ。仁武のことだから仕事中に倒れただろうっていうんで、念のため書類やら何やらを確認しに、ね。安心してくれたまえ、こいつを見つけたのはボクだ」
 ひらりと仁武の膝の上に乗る、媒人の遺した紙切れへ目を落とす。玖苑の静かな目がただただ痛くて、しかし目をそらすのもなんだか癪に思えて、まっすぐに見つめ返す。
 その様が気に入ったのか満足したのか、玖苑は実にいい笑顔で頷いてから紙切れを再度手に取った。
「故人の思うことなんて分からない。考えるだけ無駄さ」
 淡々と述べられた言葉に目を伏せる。それは確かに事実だろう。
 玖苑は淡く微笑みながら、キミってやつはつまらないやつだから、そうはならないんだろうけど、と皮肉を付け加える。
「あるいは、都合良く解釈するしか無い。結局、現在を生きているのはボクらで、あの子はとっくに死人だ。この世界を目にすることも、歩くことも無い」
「そうさせたのは俺だが、な」
「誰が司令でもそうしたさ。あの子の結合術が無ければ最終作戦は成り立たなかった」
 聞き慣れた音を聞く。元素術に伴い、紙が劣化されていく音だ。
 玖苑が手にしているのは媒人の遺品で、それはすべからく保存されるべきものだった。
 それでも止めないのは何故なのか、正直なところ仁武にも玖苑にも明確な答えを持ち合わせているわけでは無い。
 ただ、ただ、そう。
「これは『これから』の世界には必要ない。他の記録は別だけど」
 ――強いて言えば。
 せめて一番の功労者は、一番美しい記憶にとどめておくのが手向けだとも思ったのだろうか。